役に立たないこと
「人の役に立つことをしなさい」
わたしが子どもの頃から母にしつこく言われていたことです。
なぜならわたしはくだらないイタズラが大好きな子どもだったからです。
夜のうちにバナナに爪で傷をつけて、朝になると絵が浮かび上がるように細工したり
夕食のお豆腐に凹凸をつけて醤油を垂らすと綺麗な幾何学模様になるようにしたり
父の夕食を、芸術家にでもなった気分で
面白おかしく盛り付けたり
父と母が目を通す前の新聞や広告にこっそり落書きしたり
姉の学校のカバンにぬいぐるみを詰め込んだり
とにかくいろんなイタズラをしては
家族の反応を楽しんでいました。
そんなわたしのイタズラを見て、いつも母は笑いながらも呆れたように「もっと人の役に立つことをしたら?」と言うのでした。
でもわたしはそんな言葉などお構いなしです。
だって、このイタズラが役に立たないって誰が決めたの?
うきうきしながらイタズラする。
わたしのくだらないイタズラで家族が笑う。
笑う家族を見てわたしも嬉しくなる。
ハッピーなことしかないじゃない!
役に立っているか否かは捉え方次第だと思うのです。
人の命を救ったり、
効率や生産性を向上させたり、
便利な道具を開発したりすることは
目に見えてわかりやすい「人の役に立つこと」です。
でもわたしは、役に立たないように思えるものにこそ、価値があるように思うのです。
そしてそれを享受できるのは、わたしたち人間だけに与えられた特権だと思うのです。
(他の生き物になったことはないので断定はできませんが)
生命の維持に必要不可欠なことはもちろん大切ですし、
より速く、より多く、より高く、より無駄を省いて、など、向上心を持って物事に取り組むのは素晴らしいことで、利益を生むビジネスには欠かせないことです。
でも、それだけでは、目の前の数字に捉われて、何か大切なものを見過ごしているような気がするのです。
少なくともわたしは息が詰まる思いがします。
ちょっとした余白や、ムダに思えるものを楽しんでこそ、人間は人間らしく生きられるのではないでしょうか。
「役に立たない」ように思えることを切り捨ててしまうのか
「役に立たない」ように思えることに意味を見出そうとするのか、
その違いだけで、日々の生活、あるいは一生のうちで感じる小さな喜びの数に格段の差が生まれると思うのです。
だから、わたしは今日も「役に立たない」ことをぽつぽつと、いろんなところに仕掛けては、そこで生まれるちょっとした彩りを楽しんでいるのです。