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資料 「立教」以前の中山家の状況について
中山みきという人について書かれた資料は、天理教内の人が書いたものであれ、教外の人が書いたものであれ、彼女の嫁いだ中山家が「大地主」であり「豪農」であったという前提に立って当時の彼女のありようを想像しているものが大部分を占めているのですが、上の記事ではその前提自体が事実と異なっている可能性の方が大きいのではないか、という問題意識を提起させてもらっています。これにあたって参考にしたのが、天理教の二代真柱にあたる中山正善氏の書かれた「六十年の道草」と題する随筆集です。以下に関連部分を転載します。
中山という姓
もちろん、私の家は貴族でも華族でもありませんでした。それどころか教祖は平凡な百姓女であったのです。
たとえば、今日はそのことをお話ししたいのですが、中山みき、という中山の姓も江戸の昔からあったとは言えないようです。姓がないということは、当時の階級意識からすれば、はっきりした地位を示しております。家の昔の書きものなどを読み直しますと、苗字帯刀を許されて…、と書かれてありますが、私は疑問に思っております。
それでは、中山という姓をいつごろまで逆のぼって考えることができるかと申しますと、多分庶民に苗字をつけることが許された明治六年か、あるいは書きものによりますと、慶応二、三年までいけるかも知れません。こうした歴史というものは生れた以前のものですから、私などは一応その言う通りになります。
(中略)
このような昔の古い話は、母からよく聞いたものでしたが、たとえば中山の家は、中山と呼ぶようになる前は、綿屋という名で通っていたとのことです。どこが京屋で、どこが油屋だという風に、ここの村の衆などはよく知っておりますが、あの屋号のことです。当時商っていたのが綿であったから綿屋と言ったのか、いつか商っていてそれが自然に家の名になってしまったのか、私には分りませんが、綿屋善兵衛と呼ばれていた時代があったことは確かです。
いずれにしても、私の家の何代かは小作人ではなかったようです。代々庄屋を勤めていたようですし、じじいも庄屋を勤めておりました。
【引用者註:「じじい」とは中山みきという人の長男の秀司氏を指す】
たとえば、次のような、この地方で唄われたという面白い文句がありますので、紹介しておきましょう。
三島小在所西からみれば
足達金もち善兵衛さん地もち
角の綛屋は妾もち
しかし、苗字帯刀が許されていたほどの角ばった家柄であったかどうかは分りませんが、親父などはそう書いておりますのでその通り継承しておりますが、私は余り尊重しておりません。家柄などというものは、代々その土地に住んでおったということが大切なのであって、その意味からすれば、綿屋という屋号の方がよほど重みがありそうです。
(中山正善「六十年の道草」 天理教道友社 1977年 P163〜164)