彼女たちの解散から考えること

本当に感情の溜め処みたいになっています

少しずつ忘れていく時期が来るのだろうが、私はまだ忘れられない。

某日、もう一時間で日付が変わろうとしていた時だった。
コンビの片方のTwitter(X)が更新された。

(私はついTwitterと言ってしまうが、彼女のやっていたネタの中で「Xな!」と訂正するくだりを思い出してふふ、と笑ってしまう。間髪入れずの清水さんのツッコミ、好きでした。)

ツイートを見ると一枚の文書。

一文字空けて「様々なことが重なり」で始まっていた。胸騒ぎがした。読み進めていくと、やっぱり解散であった。覚悟はできていた。


解散を発表したその日の数か月前から、ファンの間で疑念が生じ、噂が流れていた。

「彼女たちの出番予定が〇月から入っていない、一体どうしたことか」

彼女たちが所属していた劇場は数か月先の予定まで出してくれる。出番が決まり次第、徐々に予定表を埋めていく方式をとっていた。

しかし、いつまで経ってもそのスケジュールの表に、彼女たちの名前が載ることはなかった。

「〇月〇日からの予定がない」
「今出ている最後のライブで何か発表するってこと?」

さまざまな反応が寄せられていたが、彼女たちは一切その事について話さなかった。私は最後のライブ配信もリアタイして今か今かと待っていたが、そこでも何も話さなかった。3月31日の夜遅く。もう日が変わる少し前、本当に最後まで。

私は芸能に携わったことがない。素人なりに「生きるのが難しい世界なのだな」と昨年から感じているが、中にいる人はもっと重いものを肌で感じながら日々奮闘しているのだろうと思う。

まず一からものを作り出していくことが難しい。世の中にあふれる事物から何を考え面白いとしたのかをネタに落とし込む。それを世の中に提示し評価される。

また作品だけを見て判断するのではなく、演じる本人たちの生き様や人間性も含め、様々な要素を絡められながら見られている。俳優などもそうであろう。

作りたいという意志は尊重されてもそれが評価に繋がらなかったら生きていけない。

創作関係は全てそうであるが、若手芸人はそれが顕著だと思う。また消費する側と接触すること、接触されることが容易である立場にあるように思える。

手売り対応をしている様子や告知がSNSに上げられ、それにファンが集う。ファンを見ていてもその対応について発信されているのがよくわかる。

また、出待ち論争もたびたび見かける。

「売れている人は分かるけど売れていない芸人が愛想悪く対応するのはおかしくない?」(文章変えてます)


このような投稿を見つけたことがある。ライブに来る側にそのような意識の人がいるのだと思ったが、それが普通なのだろうか。

普通に何様なんだろうとは思う。当方地方住み、出待ちに類するものと無縁ではあるが、出待ちに関してはタダで良い対応してもらおうとしているようにしか見えない。

文句があるならベルサイユに行けばいいのに…。

態度に文句言う人ほど金出しているのか疑ってしまうのだが、

それはさておき。


過去記事でも少し書いたが、表現者としてあり続けることは、自己を消費しながら生み続けるものだと考える。

自分の感性から生み出されたもの、作りたいと思ったことの評価を他者に委ね、受け入れられるか否かの世界。

そんな世界に身を置き続けられるのは本当に尊敬するし、大変なことだと思う。

それを手放すこともあるだろうと思う。享受する側には突然のことでも、身を置くことは生きていることと同義なのだろうから…


最後に、

彼女の言っていた、「本当に”お笑い”が好きな男性もありがとうございました」は、最後までちょっと心をちくっとついてくるような、あの独特な芸風を貫いたと思えば少し救われる。だけどやっぱり苦しさの方が伝わってくる気もする。

彼女たちの真意はどこにあるのだろう。文面以上のことを考える私はきっと気持ち悪いのだろうが、彼女たちの口から語ってほしかったなと思うのはおこがましいのだろうか。

二人の活動があの日に終ってしまったのが本当に悔しい。しかしその日まで作り続けてくれたことに感謝して忘れないようにしたい。

最後に見せてくれたネタを脳裏に焼き付けて。🧸


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