部屋はくらしのパッケージ #はじめて借りたあの部屋
部屋はくらしのパッケージだから、部屋だけじゃ幸せにはなれない。そんな当たり前のことに気づかないくらい、19歳の自分はアホだった。
東京都の中心地を皇居と東京駅だとするならば、僕の実家はかなり中心にあると言っていい場所にある。
文京区小石川、地名で言ってもわからないだろうけど、東京ドームが徒歩10分...と言えば、その都心っぷりはイメージしてもらえるだろうか?
都心といっても戦後は焼け野原からのスタートで、満州から戻った祖父が一旗揚げて呉服屋として商売を始めたのが文京区だった。
猫の額ほどの坪庭のある木造二階建ての一軒家。祖父母の事業が盛んだった頃に、従業員さんの寝泊まりする為に建てたという家に僕は15年近く住んでいた。
東京の都心に実家があるということは、1人暮らしの必要性はほとんどない。
いっそ地方の大学や会社へ行くとなれば別だけれど、1人暮らしの始まりは地方から東京へ...というシーンばかり思い浮かんでしまう。
だから、僕が19歳の冬に部屋を借りると言い出したときは、反対された。それを押し切って飛び出したことは、美化して書けば若気の至りであり、正直に書けばアホだったとしか言いようがない。
19歳の春、はじめての1人暮らしで実家を出た。
とはいえ山手線の中央部分に実家があるので、実家から離れすぎると今度は都心部の職場からも離れすぎて不便...そんな葛藤を抱えながら選んだ街は、北区の王子という場所だった。
JR王子駅の改札を抜けて、裏手側にある細い路地に入る。そこは滝野川と言われる地区で、文字通り高低差のある坂道と小さな滝のある川が流れていて、桜の名所である飛鳥山公園が傍にある落ち着いた住宅地だ。
駅から徒歩10分、1K8畳の自分の城。
僕はその場所を手に入れれば、何もかもがうまくいくんじゃないかという甘すぎる夢を見ていた。1人暮らしをして新しい部屋さえ手に入れば、何もかもが自由でうまくいく...そう思い込みたかった青い気持ちは、今思えば逃げだったのかもしれない。
今だから白状するけれど、1人暮らしをする少し前に、大好きだった彼女にフラれた。
バイト先の先輩の彼女だった歳上のその人に一目惚れして奪うような形で付き合って1年ちょっと、奪ったものは奪われるわけで、蜜月だった時間はあっという間に過去のものになり、心にぽっかり穴が空いたような数ヶ月を過ごしていた。
ズルズルと未練がましい連絡を取りつつ、1人暮らしをして自立をしたら戻ってきてくれるんじゃないか?というなんとも楽観的かつ何の解決にもならない選択肢に一縷の望みをかけて1人暮らしを始めたのだ。
結果、どうだったか?書くまでもなく、タイトルに答えはある。
部屋はくらしのパッケージだから、部屋だけじゃ幸せにはなれない。大事なのは中身、つまりそこに住まう自分自身だ。
自分自身が変わらないのに、箱だけ変えても暮らしはそれほど変わりはしなかった。
1人の時間は寂しくてネガティブなことばかり考えてしまうから、日中のバイトと夜のバイトを掛け持ちした。給料日ごとに月日が過ぎ去り、あてもなく散財して日々を過ごした。
せっかく借りた部屋は、寝に帰るだけの場所になった。
そんなある日、元・彼女から久々に会おうという連絡が来た。半年ぶりくらいに会ったその人はだいぶ髪も伸びて大人びていて、やっぱりキレイな人だな...と浮かれながら部屋へ案内した。
道中、桜の散り始めた川沿いでは花びらでピンク色に染まった川がとてもキレイで、暖かい日差しと鳥の鳴き声が春の訪れを告げていた。
でも、僕に春は来なかった。どこかの旅行のお土産で渡されていたモノだったと思う、高級そうな瓶を「これ返して欲しかったんだよね」と言って彼女はそれだけ持つとあっさりと部屋を後にした。
なんだったんだろうな、あれ...一瞬吹いた春一番のように、そこにいたという温もりすら残さずにその人の去った部屋はまた温度を失って冷たくなっていった。
1人、暗い部屋で底冷えを味わいながら何も起きなかったことに思いっきりへこんで、それでもまだ可能性があるのでは?とすがるようにメールをしてそっけない返事にまたへこんだ。
部屋はくらしのパッケージだから、部屋だけじゃ幸せにはなれない。
でも、部屋はくらしのパッケージだから、部屋がちゃんとあるからこそ、くらしが楽しく充実したりもする。
部屋はくらしのパッケージだから、そこの中には人がいる。
僕は人をぜんぜん見ていなかった。
場所さえあればうまくいくと勘違いをしていた。
はじめて借りたあの部屋は、寂しさや不甲斐なさと、都合のいい奇跡なんて起きやしないという現実を、19歳の僕に教えてくれた。
その後、何度か恋愛めいたこともあったりしたけれど、結局特定の恋人ができることもなく、2年後の更新をせずにその部屋を後にした。
でも、あの寂しくて苦しかった、真っ暗な部屋に寝に帰るだけの2年間は、ずっと親元で守られて来た青二才が世間を知るためにはとても良い時間と場所を与えてくれた。
あの寂しさや苦しさには、もう戻りたくはないけれど...ビターな思い出も、アラフォーになった今なら人生の味わい深さとして捉え直せる。
はじめての彼女と、はじめてのあの部屋の思い出を、春先に桜の花びらでピンク色に染まる川面を眺めるたびに思い出す。
苦い思い出と、冷たくて暗い1K8畳の自分の城。
それが、僕がはじめて借りた、あの部屋です。