苦悩と破滅の中の暗証番号
頭の中で、いくつかの選択肢が浮かぶが、どれも確信がもてない。
スーツを着込んでいるのに、脇の下を冷風が通り抜けていくような寒気が止まらない。手のひらをそっと見ると、しっとりと汗ばんでいる。このまま時間が経てば、鏡のように自分の顔が映るのだろうか?とありもしないことをぼんやりと考えながら、軽く頭を振る。
ずっと時間が止まっている。暗証番号がどうしても出てこない。
たった4桁の数字だ。それを打ち込んで、最後に「確定」ボタンを押す。それだけのことなのに、冷や汗どころか軽いめまいも始まったようだ。
もう何回目だろうか。腕時計をちらりと見る。時間が進んでいるのか、止まっているのかさえ分からなくっている。
初めに機能の説明を受けたときは、電話番号や誕生日、車のナンバープレートといったすぐに推測されそうなものは暗証番号にするなとのことだった。そんなことは、言われるまでもなくわかっている。しかし、あの高揚した気分の中で、冷静に4桁の数字をランダムに考え出すのは無理だった。しかも、それを手帳に記することすらだめだと言われたのだ。
最初に打ち込んでみたのは、娘たちの生年月日の数字を組み合わせたものだった。自分の唯一の味方の娘たち。その生年月日の中で複数回出てくる自分でも気に入っている数を4桁に組み合わせた。
数字を素早く打ち込み、一呼吸おいて「確定」ボタンを押す。
入力欄が3回点滅してから入力部のランプが消えた。暗証番号が間違っていたようだ。
数字の順序が違ったのだろうか?
数字の並びを変えて打ち込んでみる。またランプが消えた。これで2回目。
ここで時間が止まった。
たしか20年前にこの装置の使い方の説明を受けたときは、「3回間違うとロックされる」とのことだった。もう間違えるわけにはいかない。あの時、ロックされたらどうなるかを繰り返し尋ねたが、結局その答えは返ってこなかった。
20年前?そうだ。あの頃は幸せな結婚生活を送っていた。別れた元妻の誕生日。これに違いない。
慎重に、元妻の誕生日に因む4桁の数字を打ち込み、祈るような気持ちで、最後の「確定」ボタンを押す。
その途端に、入力欄の外枠が赤く光り、同時にロックされたことを示す表示がまぶしく光った。また間違ったのか?だれか正解を教えてくれ、と頭の隅でぼんやり思った。
権謀術数の限りを尽くして権力の頂点にまで登りつめた20年前、夫婦関係も順調だった。聡明な2人の娘も美しく育っていた。幸福の絶頂だった。
執務机の横で無表情のまま立っていた男が、軽く舌打ちをした。なんて失礼な奴だ。一言文句を言ってやろうと思ったが、その男の名前を知らないことに気づいた。これまで言葉を交わした記憶もない。
常に自分のそばで影のように寄り添うその男は、黒いカバンを必ず右手で持つ。左利きなのだろう。銃を使うのは左手なのだろうか?以前ぼんやりとその男の姿を見ながら考えたことがある。
男は、核兵器の発射命令の最終確認コードの入力装置の入ったその黒いカバンを一言も発することなく乱暴に閉じた。その時だった。目出し帽を被った警護隊員が5名、音もたてずに後ろから自分を取り囲んだ。二人の隊員が両側から左右の腕を素早く抱える。
入室は許可していないぞ、と叫ぼうとしたが声にならなかった。
椅子から立たされ、背後からからきつく目隠しされたときにようやく気付いた。
「ロック」されたのは自分自身だったのだ。