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4月は学年が上がり歳もふえる みんなそうだと思ってた 4-2022/04/07

 本日62歳になった。姉の享年(41歳)をとっくに通り過ぎ母の享年(59歳)をするりと超えた。それが、なんだかとても妙な気持ちになる。私だけするすると歳をとっていくと思ってしまう。

 前回(3-2022/03/27)、年度末を意識したのは学校に上がってからか、などと書いた。だが年度末の認識、わさわさいろいろ片付けなくちゃいけない感じは、やはり就職後、社会人になってからだ。そんな感じとは無縁に、この季節、私には物心ついた時から節目だったのだ。年度末から新年度になったからではなく、私の誕生日が、今日「4月7日」だからだ。と、いまさら気づく(笑)。幼稚園入園と同時に5歳になった。年長組に入った途端6歳になった。小学校入学と7歳はセットだった。


 私は、なんと
 世の中の子ども、みーんな4月に学年が上がり歳もふえると思っていた。

 おそらく、小学校2年生?くらいまで、いや3年生かな。1年生の時仲よくしてくれたタカシくんが、夏休み前に誕生会に呼んでくれた。だから自分以外の人は4月に誕生日があるわけじゃないと気づきそうなものだ。だが、すぐには気づかず。私以外の人の誕生日が8月だったり、お正月の頃だったり3月だったりする、、、その事実に気づいた時は衝撃だった。子ども時代の一番の衝撃だったかも。


 幼稚園入園前から小学校4年生の終わりまで、私は北区中里にあった国鉄(現JR)田端アパートで、父と母と4歳上の姉と暮らした。田端というエリアは、国鉄の一大基地だったようで父の勤務先は田端機関区、国鉄職員のための病院もあった。国鉄アパートは高台に4棟建っていた。高台の崖下の眺めはたくさんの線路で、水色の京浜東北線が上り下りビュンビュン走っていた。コンテナを載せた貨物列車も通っていた。今もJRコンテナを見かけると、とても懐かしい。家の中にいても電車のガタンゴトンが響いた。国鉄アパートは5階建てのいわゆる団地で、ダイニングキッチンは当時目新しい間取りだったらしい。両親も親戚も(叔母やイトコたち)、あの時代を「田端」と呼ぶ。だが田端駅まで徒歩だと相当遠く、私にはピンときていない(笑)。


 最寄り駅は京浜東北線の上中里駅だったが、実際に最も利用した駅は駒込駅だ。国鉄アパートから駒込駅の間に、おうちがお店の同級生の家が複数あったり(布団屋さんと薬屋さん)、ピアノ教室の先生のおうちもあった。山手線の線路を挟んだ逆側に小学校もあった。小学校と駒込駅の間に、にぎやかな商店街があった。少し家から遠いけど品数豊富なので、遠足の前にお菓子を買いに行った。そこはなんと、「田端銀座」という名前だ。駒込駅の近くなのにおかしな話だなと今思う。小学校は、山手線の田端駅と駒込駅の間にあり、電車からちらりと見えた。私は小学校5年生の2学期から卒業まで、新宿区の小学校に転校したが、その小学校の校舎も、高田馬場駅と新大久保駅の間に見ることができた。通った小学校は3つだが、その内の2校が山手線から見えた。私のどうでもいい自慢だ。


 小学校を2回も転校したのに、入学した小学校のお友だちとのつきあいが今も続いている。しばらく年賀状の交換だけの時期もあった。だが、そのお友だち=えっちゃんに昨年4月に再会できた。私の両親と姉もいた時代を知る友人知人は、今や数少ない。えっちゃんは数少ないそのひとりだ。二人でトンデモなく面白く遊んだ。えっちゃんは、その頃からバレエ少女で、それを貫き、今も現役モダンバレエのダンサーだ。ぎこちない動きの私が、しなやかな彼女にひっぱられての遊びっぷり。大きくなってから、えっちゃんのママがいつも、あははは~と笑いながら話してくれた。覗きに行ったら、二人がお尻出して踊っていたよって(笑)。えっちゃんのママは、私の母と同じくらい朗らかで明るかった。数年前に旅立たれたという。あの世でうちの母と再会し、二人で大声で笑い合い私たちのことを話しているといいなあ。えっちゃんのママにもう一度会いたかった。


 誕生日といえば、母が焼いてくれたスポンジの「まるいケーキ」。柔らかな感触と美味しいにおいが今も蘇る。これはまたあらためて。大好きなイトコのやすこちゃんと私は同じ誕生日。Happy Birthday to us 💛

(表紙の写真は、ぎこちないけどクラウンさっちー踊ってまっせの図。下の写真は、まだみな4月に学年上がって歳とると思っていたころ)

20220407幼稚園さくら組




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