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病室でピクニック♪~私の母はクラウンだった~8-2022/05/27
5月22日はクラウン仲間の一人の誕生日だった。この日は、私には長い長い1日だったと記憶していて、実は人生の中での忘れられない日である。思えば人に話したことはなかったが、それでこの仲間の誕生日を記憶している(笑)。
18歳のこの日1978年の5月22日未明、階下から聞こえる母の声でめざめた。母はすでに動かなくなっていた父に叫んでいた。救急車をいきなりは呼ばなかった記憶がある。なぜだったのかなー?今となってはわからない。結局救急車で、父は主治医のいる東大病院に運ばれていった。
母が同乗し、姉も追いかけたのだったか。とにかく、私は留守番しろと言われ、家に残った。
父がシンデシマウノカモシレナイ、、と思って過ごした長い長い1日。ふだんは学校へ行く平日に家で一人でいることなどなかった当時、それはとんでもない非日常で、なれた場所のはずなのに、初めての場所にいるようだった、、そんなふうに記憶している。
父の意識が戻るのに、約2ヶ月要したと思う。
父は死ななかった。生還した。1年の入院生活を経て、姿は変わったし、一人でできることも激減したが、家に戻れた。できないことが増えても、また家族として過ごせることは、月並みな言い方だがとんでもなく幸せなことなのだと知った。
1978年の5月22日は、私の最大のメモリアルデイとなり、人生のフェイズが変わった日となった。そのことにじわじわ気づくことになる。その当日は、ただただ連絡を待つのみの長かった1日。いったい何がどーなるのかさっぱり見えていなかった。
長かった父の入院期間、家族4人で当たり前に囲む食卓は姿を消した。高校生だったあのとき、まだふーふー言ってるかんじの父の病室で、何度も何度も晩ごはんを食べた。買ってきたおにぎりを、母と食べることも多かった。あるお店のおにぎりが、昔風の経木に包まれていた。経木を開いて黒い海苔にくるまれたおにぎりを食べようとしたとき、母が言った。
「ピクニックみたいだねー❤」
ほんとだねーと言って、二人で笑いながらおにぎりをほおばった。
たわいもないやりとりだった。やだなーお母さんったら、お父さんの病室でこんなこと言っちゃって、、と笑ったように思う。
だが、楽しいピクニックなわけがない。そんなわけがなかった。母には砂を噛むようなおにぎりだったはずだ。
私を楽しませるためだったろうか。
自分自身を奮い立たせ、元気でいなくちゃと思ったのだろうか。
むりしてただろうか。
あーもう尋ねることはできない。
でも、「ユーモアがだいじだよ、生きてく上でなんたってユーモア!!」そんなことを子ども時代の私に、母はいつも何くれとなく語っていた。だから、経木から顔だしたおにぎりを見て、無理なく語ってくれたように思う。きっとそーだよ。
そー♪私の母はクラウンだったんだー!!
私は、クラウンの母に育ててもらったのかも。
経木から顔を出したおにぎり、それはいつでも楽しいピクニック❤
どんなところでパクついても、いっしょに笑って食べればピクニック。
私のクラウン物語のはじめのはじめを辿っていくと、病室でピクニックだねーと言って、笑って食べた経木のおにぎりを想ってしまう。おいしかったんだ、母と食べた病室でのおにぎり。先行きを心配し出したら果てしないほど不安な日々だったが、母の一言でピクニックに行けた。赤ハナみたいな梅干しは、実はあんまり好きじゃなかったけど(笑)。
(表紙の写真は、ほぼ初めて赤ハナつけてクラウンとなった日。クラウンの師匠まりちゃんはじめ、ごいっしょのみなさん、ありがとう)