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日本人にとって仏教ってなんなんだろうね
こんにちは。今野富康です。
まったく更新していなかったnoteを6年ぶりに更新です、笑
仕事の話はameblo、小難しい専門分野の話は自社ブログ、旅、趣味、日々の雑感はnoteみたいな感じの棲み分けでしばらく遊んでみようと思います。
ちなみに今は奈良にいます。
昨日まで、コロナ療養だったのですが、本日、無事お勤めを終えまして、家族旅行です。
普通に考えれば、病み上がりでくるよりも少し間を空けて来月あたりにしたいところですが、今回はそうも行かない。
なぜなら、今回は次女の英検準2級合格祝だからw
3月に発表になったので、ご褒美旅行はなるべく近い日付にしたい。
本当は3月末に旅行の予定だったのですが、家族全員で新型コロナ療養になっていたのでやむなく延期して本日です。
今日と明日の午前中が奈良、明日の午後と明後日が大阪&USJの予定。
病み上がりには、少々ハードな小旅行。
この時期の奈良は1年ぶり2回め。
定番ですが東大寺と興福寺を見学に行ってきました。
私はお寺とか神社とか大好きなんです。
別段、信心深いわけではないんですが、古い建物っていいですよね。
仏像なんかも大好き。
私の中でのベスト・オブ仏像は東寺の帝釈天像です。
あの佇まいは美しい。
そんなわけで、これまでいろんなお寺さんに参拝してきました。
なんですが、前々から疑問に思っていたことがいくつかあります。
疑問.寺社勢力って割と世俗と戦ってない?
お寺って、大事にされてきたと思うんですよ。
でも、意外と燃やされたりもしているんですよね。
有名なところだと、織田信長による延暦寺の焼き討ちがあります。
当時の比叡山延暦寺は、今イメージする宗教施設ではないんですよね。どちらかというと、大名みたいな感じで宗教的な権威であるだけでなく、年貢を取り立て、金貸し、お金を返さない人は人身売買、僧兵を多数擁していました。
その上、織田と対立した朝倉・浅井両軍を匿ったので、最終的に延暦寺は徹底的に破壊されました。ただし、壊され、焼かれても、宗派の存続はなぜか許されています。このあたりは本願寺も同様です。
そう考えると、信長は軍事力をもった世俗勢力としての「寺」を攻撃したのであって、仏教そのものを抹消しようとしなかったのだろうと言う感じがしますね。
南都焼討
こんな感じで比叡山は有名ですが、奈良の大仏は実は2度も焼かれています。
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1回は平重衡によるもので、源平合戦の折ですね。当然、平清盛の命令です。ちょっとまて、出家してなかったっけ?と思うんですが、そんなことお構いなしに反抗的な仏教勢力に激おこの清盛は奈良を攻撃。結果として奈良の街が広範囲に焼け落ちます。
この平重衡による南東焼き討ち(1181年)で、興福寺とともに東大寺も焼かれています。この時、大仏殿(東大寺金堂)が焼失。大仏の頭と右手が焼け落ちたと言われています。
このときも、平家に対して反抗的だったことが原因になっています。つまりは、世俗勢力の一種とみなされると割と簡単に攻撃されるのが日本の仏教みたいですね。
ちなみに、、、重衡は源平合戦終結後、南都大衆=奈良の僧侶や僧兵に引き渡されて斬首されます。めっちゃ恨まれてる。まあ、恨まれるか。というか、仏教勢力よ、慈悲の心は?笑
東大寺大仏殿の戦い
今度はだいぶ時代が下って戦国時代です。1567年の東大寺大仏殿の戦い。
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この戦いで結果的に、大仏殿を焼いた松永久秀は日本史上の悪人として記憶されることになりますが大仏殿の一件だけはだいぶ同情の余地があるような気がします。
というのは、松永久秀に敵対する三好三人衆らに陣地をはらせたのは当の東大寺だからです。戦のさなかに陣地として寺の敷地を差し出せば、当然、戦火は及びます。久秀は久秀で、攻めないわけにはいきませんし。
結果として、大仏殿を焼き払った久秀は悪人として名を轟かせることになりますが、、、個人的には戦国時代の寺社勢力っていうのは結局、仏教の皮を被った世俗勢力という側面が強いんだよなと思うわけです。
考えていれば、この時期は仏教勢力同士で普通に戦争をして死者を出してますし、我々が考える宗教とはだいぶ違う。そういう背景を踏まえて考えると、普通に世俗勢力同士の戦いという感じですよね。
実際、戦国時代には一向宗が興福寺を襲撃したり、法華宗が山科にあった本願寺を攻撃して追い出したりするような争いが起きています。まあ、仏教同士でも武器を持って戦っている。
そう考えると、ますます世俗勢力との差がよくわかりません。強いて言えば、正当性の根拠が仏教の世俗勢力みたいなものかもしれませんね。
ところが宗門自体を抹殺するような事例はない。
キリスト教は豊臣秀吉や徳川家康、家光らによって徹底的に排除されましたよね。ところが、仏教に関してはいろいろあってもそういう徹底した排除はない。これ、不思議だなと思ってます。
比叡山は焼き討ちされたけど、天台宗の存続は事実上許されている。本願寺も散々戦ったけど、大坂本願寺を退去して軍事的脅威がなくなったあとは存続自体は許されているように見えます。
これ、何でなんですかね?不思議です。
本稿の結論・・・的なもの
世俗の権力としては信仰に口出しをする気はないけど、軍事力や経済力といった現実的な脅威になったときには排除もいとわないというようなスタンスなのかもしれません。
その意味では、ものすごく現実的というか、ドライな感じで仏教を観ていたんじゃないだろうか?と思えてきます。
本稿では世俗勢力という言葉を使ってみましたが、そもそも仏教も世俗なのかも。なんか、西洋史でいう世俗と宗教という色分けそのものが日本の実情には合わないですね。
まあ、西洋は西洋で、枢機卿に子どもがいたりしますし、世俗の政治的な争いとかなり密接につながってはいますから、やはり境目は曖昧なのかもしれません。
日本は軍事力としての仏教勢力が戦国でなくなって、その後、江戸時代はなんとなく今、私たちが知っている仏教の姿に近づいてきます。だから、戦国時代やそれ以前の仏教の姿を垣間見るとなんだかすごく違和感がある。
当時の仏教の実際の姿を理解すると、お寺が全く違ったものに見えるのかもしれないですね。
日本人にとっての仏教って、つまるところ庶民から見ればありがたがる対象であり、身近な権力の一種だったし、権力者からみればあるときは味方でありあるときは敵であり、というような存在だったのかも。
すくなくとも今のように単に宗教というように割り切れるような単純な存在じゃなかったことだけは確かですね。なかなか、複雑です。