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推薦する理由。「自殺の理由としては十分過ぎる恥」を。

私は鏡筆のエージェントです。
彼の小説「自殺の理由としては十分過ぎる恥」の書評をいたします。

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鏡筆の小説「自殺の理由としては十分過ぎる恥」は、中年の男の人に読んでもらいたい。
多分、若い人や女の人には理解できないと思う。

世の中の中年の男は今、恥をさらしながら生きている。
みっともない政治も、あわれな経済も、お粗末な行政も、中年の男たちがつくってきた。
つまりこの世がみっともなく、あわれで、お粗末なのは中年の男たちのせいだ。
だから彼らは恥じている。

では、中年の男たちが政治と経済と行政を担わなければよかったのか。
そうかもしれない。
しかし、彼ら以外に政治と経済と行政を担わなかったのも事実だ。

つまり現代社会の構図は、政治と経済と行政を担わなかった者たちは中年の男たちのせいにして、中年の男たちは「俺たちがやらなかった誰がやっていたのか」と思っている、という状態にある。

本作の主人公、Wは30代の男である。
つまり、これから恥をかいてゆく者だ。
Wは社会への影響力が大きい新聞社に入社するが、その仕事は校閲だ。
記者ではない。

新聞記者は、まあ、エリートといってよいだろう。
記者には高学歴が求められるし、高度なコミニュケーション・スキルを持っていなければならないからだ。

しかし同じ新聞社にいても、校閲の担当者にはそこまで高いスキルは要らない。
それでもなお、校閲担当者は自分も記者並のエリートでありたいと願ってしまう。

力量も、もちろん才能も、あまつさえ努力をする意志もない者が、エリートぶろうとする罪の罰は恥をかくことだ。
ただWは、学歴こそ相応のものを持っていたが、エリート願望は弱かった。
新聞社に入ったのも偶然に近い機会があったからだし、入社してすぐに、配属された校閲部の惨めさを見抜いた。

ところがWは、社内でエリートと出会う。
しかも2人。

この2人は夫婦で、妻はF、夫はfという。
いずれも社内で名が知られた有能な記者だった。
しかし2人とも、人事のあやで校閲部に配属となる。

2人はW人に親切だったが、エリートによる、非エリートへの親切は、大抵は残忍だ。
エリートは非エリートの内的理論を解さないから、つい非エリートをエリート扱いしてしまい、それが非エリートに悲劇を与えてしまう。

Wにはいくらでも、Fとfから逃げる機会はあった。
Wが一言「もうあなたたちたとは付き合わない」と言えば、Wは退屈でも無害な会社員人生を歩むことができた。
分相応の。

しかし非エリートにとって「エリートになれるかもしれない」という誘惑ほど、断りにくいものはない。

WはFf夫妻に誘われるまま、組合運動にのめり込み、さらに政治運動に巻き込まれ、ついに・・・。

WはFと性的関係を持つ。
それはWが別の女と結婚してからも続いた。

以上の行動からWは無罪ではない。
しかしこれだけ大きな恥を持たされるほどの罪だったなのか。
その判断は読者に任せよう。

繰り返しになるが、女の人と若い人が本作を読んでも退屈するだけだろう。
もしくは「やっぱり中年男は気色悪い」と感じるだけだ。
つまり女の人と若い人が本作を読むメリットはない。

しかし中年の男と、中年男になる予定の人が読めば、自分が抱える恥の正体を突き止めることができるだろう。
「俺もこんなに恥ずかしい人間なのかもしれない」と思わせることが、鏡筆の狙いなのだと思う。

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