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厚真で暮らすこと5.災い転じてつながりとなる

「今日で東日本大震災から10年を迎えます」

3月11日の朝、テレビをつけると各局で特集番組が組まれていた。

10年前の3月11日、地震発生のときは、当時勤めていた会社のオフィスにいた。営業先から戻ってデスクワークをしていたら、地上8階にあったフロアがグラリと揺れて、立てかけてあった脚立が豪快な音とともに倒れた。

夕方、札幌駅の改札前で配られていた号外を手にし、営業先へ向かう。

『東北で地震……そういえば、これから行く営業先のお客さん、確か福島の出身って言ってなかったっけ……?』と、ざわざわした気持ちで電車に乗ったのを今でも覚えている。


東日本大震災発災直後の春、私は前職のNPOに転職した。

転職先では、発災の翌日からすでに被災地での支援活動を開始。初出勤の日も指導係だった先輩が、私が出勤した4時間後には岩手県へ派遣される予定となっており、動き続ける支援活動を目の当たりにしながら、社会人第2ステージが始まった。

転職1年目のぺーぺーも発災から半年を過ぎた10月末、現地の活動拠点となっていた岩手県釜石市へ派遣されることとなった。当初は1週間の予定だったが、会社員時代にお世話になった上司が仙台に居ることがわかり、ちょっと足を伸ばすこととしたため、10日間ほど滞在することにした。


テレビや新聞の中にあった出来事が、現実のものとしての肌触りを得た瞬間。

内陸と沿岸部、津波の爪痕がはっきりとわかる境目に言葉が出なかった。

ここにも人の暮らしがあり、思い出があり、ふるさとがあったんだと想像した。今ならその痛みがもっとよくわかる。

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発災直後から地元の岩手県釜石市に戻り、ふるさとの復興に尽力する仕事仲間がいる。

同じNPOに所属しながら、私が勤めだしたときに釜石へ渡ってしまったので、在職時代はほとんど一緒に仕事をする機会はなかった。

ただ、釜石へ行った10日間、同い年の彼女が様々なミッションを携えて、たくさんの大人たちから発せられる熱量を受け取って、とても"頑張っている"姿が、私の中に今も強く残る。

震災後の地元に帰ってくることを決めた彼女が抱えた現実の前において、当時の私は毎日、オーダーがやってくるボランティアの現場で汗を流すことしかできなかった。

家族を、家を、ふるさとをなくす気持ちを想像しても、結局、想像の域を越えていかない。それを想像することさえおこがましいとも思った。


月日は流れて、2018年の9月6日。

北海道胆振東部地震が発生。夜明けから間もなく、消防車、パトカー、自衛隊車両が次々と走る様子を、ベッドの上から窓越しにぼんやり眺めていた。

北海道厚真町は、胆振東部地震の被災地になった。

多種多様な支援活動がすぐに始まり、身の周りがとたんに騒がしくなる。見覚えのない顔が町の中にあふれていた。


電気は復旧したものの、水がまだ出ない自宅。

発災から3日目の夜、片付けも満足に出来ていない家にひとりで帰るのも足が向かず、でも、人にも会わずにどうにかしたいと悩んだ結果、その日は車で夜を明かすことにした。

暗がりの中、吉野の斜面崩壊した写真が一面に載る新聞を眺めて、釜石での支援活動のことを思い出していた。

優しさと使命感の重みがずっしり身に染みる。

私は耐えられなくて逃げたけど、これが正解だったのか、いまだに答えは見つけられていない。

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その年の11月、釜石から三陸ひとつなぎ自然学校・代表の伊藤さん、そして、東日本大震災を機に地元へ戻ったジョイこと柏崎さんの2人が来ることになった。

子ども教室の活動を手伝ってもらったり、前職の先輩にも声をかけて一緒に食事をしたり、楽しい時間を過ごさせてもらった。

被災地支援の現場で様々な人を受け入れる側に立ち、調整をしてきた人たちだから、それまでの想いを気兼ねなく話せてとても心が軽くなった(色々しゃべり過ぎたかもしれない……とちょっと反省している)

その後も年が明けた春休みには、釜石から支援活動をしたいと小学生と高校生の女の子を連れて再び来町。厚真の子どもたちと一緒に1泊2日のキャンプを実施した。

このときの訪問の際にも、

「『東日本大震災のときにお世話になった人たちが暮らす北海道で、今回、大きな地震が起きた。あのときお世話になったお返しを、今度は自分がしたい』という子がいるんだけど。でも、現地の想いと支援したい側の想いが同じとは限らないし、現地の負担になるようなことはしたくないんだよね」

という気持ちが前提にあるコトを示してくれた。

これが被災地支援に携わってきた経験値なんだろうと思う。

町有林での森遊び、西埜さんちで馬のお世話やたき火をしたこと、郷土資料館でのおせんべいづくり、絵本の読み聞かせをしてくれたこと、みんなで一緒につくって食べたごはん。とっても楽しい時間だった。

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何より自分が楽しかったからだと思う。「今度の春休みは、厚真から釜石に遊びに行こうか」と、素直に口をついて出た(本当は去年の春休みに行く計画をしていたけれど、コロナフィーバーに阻まれて断念……でも、必ず連れて行くよ!)

大きな災害の経験を持つ2つの地域。災害がつないだともいえる釜石と厚真。でも、あの2日間の出会いには、支援される側とする側という境界線はなかった。「その節は、大変でしたねぇ」「いえいえ、そちらこそ。お互い様ですねぇ」というような、心が凪ぐ穏やかな関係があっただけ。

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愛着を持って暮らすまちが"被災地"と呼ばれるようになり、支援活動をきっかけに、地域の様々な活動に関わる人・機会も増えていくのだろう。

胆振東部地震のあとにも台風や豪雨による水害など、各地で自然は爪痕を残している。そこにもまた支援活動が生まれ、人の熱量が動く。

いわば支援現場の当事者となった今でも、支援という言葉のインパクトに戸惑いや疑問を感じることもある(そもそも、自分たちに出来ることは、自分たちでやりたいタイプでもある)

災害を経験して思うのは、日頃のつながりや関係性を大事にしていかねばということ。非常時にほっと一息つける瞬間は、今までに持っていたものの中にあったから。

今回のように、今までに持っていたものから、膨らんでそのまた先へつながっていくこともある。

新しいつながりについては……もはや相手方との相性というところにも依(よ)るのではなかろうかとさえ思っている。この人、人としてスキとか落ち着くとか。結局は、人と人との出会いに他ならないのなら、そういうものなのかもね。


『あの日から10年』という報道を目にするたび、あと2年半後には『北海道胆振東部地震から5年』をキーフレーズに、アニバーサリー報道が増えるのかしら?と少し先の未来を想像する。ちょっとヤダなって思った。

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