「分かった気になる」を「理解している」と勘違いしている人たち
スマホで始めるYouTube講師
かとうさやかです。
あまり周囲に言っていない私の趣味の一つに「小説を書くこと」があります。(完全匿名で投稿サイトに掲載してるので、作品は墓場まで内緒にします)
その話をしたら、とある「自信満々オジサン」に「小説を書くにはね、まずはプロットっていうのがあるんだよ」と急にご指導いただいたことがあります。
プロット、要は「話の構造」「あらすじ」ですね。
私は小学生の頃から大学ノートに趣味で小説書いていたし、そもそも投稿サイトで何度か「サイトお勧め小説」に選出されたこともあるので、
「小説書くのにプロットを知らないわけないやないか」
と思うのですが、なぜかそのオジサンは、小説の基本中の基本であるプロットについて「無知な私に新鮮な知識を教えるように」語り出したんですね。
例えるなら、「私は料理が趣味です」と言ったら「料理はね…レシピっていうのがあってね。料理の工程や材料が一目でわかるんだよ」と説明されたようなものです。
「知っとるわ」
じゃないですか。
「それを知らずにどうやって料理するのかと」と。
で、その「プロットっていうのがあるんだよ」と自信満々に教えられた時は呆気に取られてしまって、私にその話をすることへの理解が追いつかなかったのですが。
思い返せばその人はどの分野においても大体そうで、共通の知り合いから話を聞いても「あの人、当たり前で誰でも知ってることを初めて聞いてきたかのごとく自信満々に語るよね」と評判の方でした。
最近ふと思ったのですが、こういう方は「知っている」の解釈が私とズレているのかもしれないと。
例えば今は「知りたいこと」があると、インターネット、SNS、動画サイト、BingAI、ChatGPTなどがすぐに答えを持ってきてくれます。
ただそれは表面的に上部の知識をなぞっただけであって、「理解した」とは言い難いインプットでもあると思います。(インターネットの大海原にあまた散らばる誤情報については一旦脇におきます)
平たくいうと
「分かった気になれるだけ」
本当にそれについて理解を深めたわけではないのに、「分かった」「理解した」と勘違してしまう。
本当にそれについて理解したいなら、インターネットだけでは本質的な理解はできないはずです。
だから世の中には専門家がいて、それについて何年も向き合っているプロと呼ばれる人たちがいる。
そのプロたちが時間をかけて何度もチェックしてエッセンスを凝縮した「書籍」といものがある。
ある物事について「本当に知りたい」と思ったら、人に聞くとか、本を読むとか、実際自分が体験してみるとか、そうやって初めて「理解」に少しだけ近付ける。
ただ最近だと「インターネットで調べた」「SNSで見た」「ChatGPTに聞いた」の段階で「私は知っている」になっている傾向があるのではないかと思います。
そう考えると、この情報社会だからこそ、「たくさんの情報を目にしていること」より「一つの事柄を深めること」の方が大きな意味を持ってくると思います。
そうしないと「誰でも知っていることをまるで知識人のように自信満々に語る」ちょっとイタイヒトになってしまいます。
これは私も大いに気を付けなければいけないと、かなりの自戒を込めてこれを書いています。
ちなみにその「自信満々オジサン」ですが、自分が全く知らない話題を振られた時はどうするか。
例えばクラシック音楽の話題で、私が「シューマンのノヴェレッテンについて深めたいんです」とか言ったら。
どうすると思います?
無視するんですよ。
反応しない。
それ以上、話を続けさせないんです。
そして、自分がとうとうと語れる話題に変える。
いますよね、そういう人。
自分の領域でペラペラ話せる話題じゃないと一切の興味を示さない人。
話を戻しますと、「情報」がとても身近で軽くなったからこそ、これからは「多くの情報を広く浅く知っていること」より「知見の深さ」に人間としての価値があるのではないかと思います。
「知っている」が手軽に手に入るからこそ、知識がどこまでも浅くならないよう知見を深めていきたいものです。
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