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「科学的に…」という非科学性に翻弄されない組織開発

科学はヤル気をしぼませる

やらなければならないことが多いほど、ヤル気がしぼむのはどうしてでしょうか。
何かをやるためには、そのための準備が必要となり、さらにやるべきことが増えます。あるいは、何かをやらなければならないとき、それをやるための知識やスキルが必要となり、それを獲得することをさらにやらなければならなくなります。
果たして、原因もなく、目的もない仕事はあり得るでしょうか。おそらく、やらなければならないという心は、原因と目的に縛られた結果として生じるもののように思われます。そして、心が原因と目的に縛られるから、ヤル気が起こらないのかもしれません。ところで科学とは、全てを原因と目的で説明しようとすることです。

科学は何も保証しない

では、科学が何を原因と目的で説明してくれるのかと言えば、それは「今のところの正解」ということになります。例えば、由実かおる氏がスタイルを維持している秘訣は、時間がきたから食べるのではなく、お腹が空いたから食べるというものだそうです。現在の医学では、時間的に規則正しい食事が推奨されていますが、いつか、それは都市伝説になるかもしれません。科学とは、そういうものです。
だとすれば、それは求めるものではなく、利用するものとなるでしょう。そうなれば科学教育は、それを利用できる知識とスキルを提供すれば良く、それを探求しようとする必要はないと思われます。

科学に支配されないために

ただ、科学を産み出さない者は、ある意味、科学を産み出す者に支配されるということでもあります。例えば、開発されたAIを使うことは、開発された範囲で、開発されたロジックで使うことになり、そのAI(を開発した者)に支配されます。
そのため、支配されない程度の教育は、やはり必要なのかもしれません。1つのソフトウェアの不具合が、全世界の経済活動を止めた事例もあることですから…。このような事態に対するリスクヘッジとして、確かに一定の科学が独立して内在していることは必要かもしれません。
そこで、探求すべきは、科学そのものではなく、それを利用する力でしょう。しかし、誰かが科学そのものを探求しなければ、利用できる科学が減ってしまいますし、上述の通り一定のリスクを伴います。だから、それを求めたいと思う者が探求することを阻害する必要はありません。ただ、すべての者に科学そのものの探求を求める必要はなく、ましてや、裾野を広げることでより多くの優秀な人材を科学領域に囲い込もうとするのは、それこそ科学的に非合理だと言えるでしょう。
つまりは、その兼ね合い、あるいはバランスが重要だということです。極端に振れた意見はわかりやすく、甲乙を決めやすいですが、やすきに流れるようでは困りものです。

与えられた科学を利用する

このような科学は、そこに何があるかを明らかにします。つまり科学とは、与えられるものだとも言えます。そこへの気づきが、おそらくは知識と探求のバランスを取っていくのでしょう。
そして、論理もまた科学であるなら、同じように考えるべきだと思われます。例えば、論理によって説得はされても、納得はできないでしょう。なぜなら、論理は与えられたものであって、自らには、それに対する拒否権が備わっているからです。
このように考えるなら、冒頭で提起したヤル気が起きない理由も、やらなければならないという論理に対する拒否権の発動だと考えることができそうです。

ヤル気の源泉は気づき

1つの仕事を実践するためには、それを成し得る知識と、それを成し得たいという探求が必要になります。だから、そのバランスが重要となるのでしょう。そしてヤル気を出すためには、知識と探求を必要としていることへの気づきなのだと思います。美しい富士山も、ただ漠然と眺めていれば、それは単なる風景であり、写真や映像を見ているのと変わりません。だから、すぐ飽きるし、感動も起きません。でも、そこに意味を見出すことができれば、それは景色になっていくのだと思います。
教育と言う場では、具体的な何かを提供する前に(あるいは、それと同時に)、このような気づきをもたらすことがなければ、その何かが真に役立つことはないのでしょう。
仕事が風景である限り、おそらくヤル気は起きないように思います。それを景色にする知識と探求心が備わってこそ、仕事に対するヤル気が生まれてくるように思われます。非科学的な感情が、科学的に有効だと言うことでしょうか…。

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