部下理解の呪縛を解き、部下信頼を可能とする組織開発
突然ですが、「1+2+3+…+∞=-1/12」という等式を見て、どのように感じますか? 正の整数を無限個足し合わせた結果が、負の12分の1になることを納得できる人は、おそらく少数でしょう。しかし、この等式が正しいことは、証明されています。そして、これだけの説明で、「そうなんだ」と納得する人が少なからず存在するからこそ、アインシュタインを超える理論物理学とも言われる超弦理論の研究が続いているとも言えます。
20歳代社員の説明を聞いても「本当か?」と思ってしまう40・50歳代の部課長の中で、「やってみなはれ」と言える人は、どれくらいいるのでしょうか? 恐らくは、二の足を踏む方が大半だと思われます。それは、論理とは、説明を前提にした思考方法ではあるが、必ずしも正しいとは限らないこと、そして論理は、複雑になれば、その誤謬はなかなか発見されないことを経験的に知っているからではないでしょうか。例えば、朝の歯磨きは、起きてすぐに行う(口腔内で繁殖した雑菌が体内に侵入するのを防ぐことを優先する)のか、それとも朝食を摂った後に行う(食べかすによる虫歯菌の繁殖を防ぐことを優先する)のかは、世代によって見解が異なるのも、その一例と言えるでしょう。
現代では、全てのものは物理的に計測でき、明確なエビデンスで証明できると考えることを、“思いなし”として否定する考え方が主流のように思われます。そこで、論理を補う手段としてメタファーが使われます。例えばキリスト教者は、今、キリストを感じることはできないので、パンを通じてキリストを感じようとします。しかし、当然ながら、パンが物理的にキリストの肉体だと思っている人はいません。つまり、客観性だけで説明できないことの全てを否定してしまったら、世の中の意味はほとんど失われ、結果として望ましくない社会が形成されるのではないでしょうか。もし、上司と部下が“理解”し合えた範囲だけで組織が運営されるようなことになってしまったら、その組織は、「パンはパンだよ」といって得意になっているような、ある種の幼稚性に支配された組織になっていってしまうように思われます。
論理的であることは、わかりにくいことをわかりやすくしてくれます。でも、決してわからないことをわかる状態にはしてくれません。つまり、何かを理解するとは、わからないものの一部分をわかる状態に開くことに過ぎないのです。この視点に立ったマネジメントが、おそらくは組織を開発し、イノベーションへと導くのだと思います。
そのために、先ずは“遊び”の感覚を持つことが必要ではないでしょうか。遊びの大原則は、失敗が許されるということです。それは、考えが固定化しないようにすることでもあります。そして“遊び”には、必ず余白があります。換言すれば、「何でもアリ」の状態だということです。しかし、これでは「どうして良いかわからない」という者が現れ、やがてスキルが登場してきます。また、これでは統制が効かなくなり、やがてルールが作られます。そして、次第に考えも固定化されていってしまうのでしょう。流行の“転生モノ”も、今や似たようなモノばかりになっていることと同じかもしれません。
自分自身がお釈迦様で、部下は皆、孫悟空であろうとすれば、そこに余白は生まれません。“わかる”あるいは“理解”に囚われずに権限移譲していく裁量こそが、組織に求められているものであるように思われます。