私にとっての8月6日(2)

高校2年生まで
仕事は父親のように設計士になると漫然と思っていた。
ある時、数学の試験の点数を見た父親が「お前みたいなやつは設計士なんかなれるか!」

設計士なんて絶対ならないと心に誓った。
それから高校の図書館で、将来何になろうかと色んな本を読んでいる時に、たまたま西ドイツ(当時はドイツはまだ西と東に分断されていた)の原子力発電が上手くいってると書いてある本を見つけた。
「これからは原子力だ!」

それで原子力工学のある学校に入った。

(高校の図書館で西ドイツの原子力発電がスバライという書籍を見た私と
7学年下で、同じ図書館で原爆の悲惨さを読んだ井上さん。180度変わった方向に進んだ。人生は面白い。

彼はは国会議員になって原子力発電を追及している。)

入学したら丁度70年安保の年で、学校も社会も変革の熱で沸き上がっていた。自然と色んなことを考えるようになり、広島に帰省した時は「原爆」関係の本を読み、買い漁った。

原子力工学よりは原水爆禁止運動に目が行った時代だった。
原子力発電に反対している人がいることを知り、そんな人のところに話を聞きに行ったこともある。

また原子力を「公害」と捉えてる人もいた。そんな勉強会にも参加した。そこには学問として捉えている人がいた。

当時、原子力発電所はトイレなきマンションだとよく言われていた。今でも時々思い出して今も変わってないなーと思う。

原子力を工学として捉えるか、「反対」と捉えるか、思案のしどころだった。
が、原子力開発のスローガン「自主、民主、公開」に惹きつけられて「原子力工学として捉える」これが大学4年生の時の方針だった。

それで原子力そのものを扱う会社に入った。その会社では8月6日をどのように考えて、どのように扱うか興味があった。(続く?)

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