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嫌悪と執着
前に「恐れと執着」というようなタイトルで書いた気もしますが、似ているけれど少し違う「嫌悪と執着」。どちらも、スクールの講座等で取り上げたり、たびたび書き物で触れたりしてきたことですが、今日は改めて、note のこちらの場所でもご紹介したいと思います。
アルガンザのサロンの上級者向けクラスでご紹介したこちらの本
『現代人のためのヨーガスートラ』
(グレゴール・メーレ著 ガイアブックス)
私個人としても本当に好きな本で、インド哲学、ヨーガ哲学の代表的な文献であるスートラについて、ドイツ人ヨギーの方が解説している一冊。現代人のための、というタイトルの通り、現代人の生活や思考などに照らして解説しているので、とても分かりやすい。
ショップでもガイアブックスさん書籍は紹介していましたが、新旧ショップの入れ替え作業中のため、現在はこちらは在庫切れですが、気になる方は、書店さんやネットで見てみてください。
今日はヨーガ哲学の話ではなく、この本の中に出てくる、「不幸というものはたいてい、嫌悪か執着によるものである」という解説の一文から、私が思うことを添えて。
嫌悪とは、
「これさえ無ければ(あの人さえいなければ)私は幸せ」
執着とは、
「これさえ有れば(これさえ叶えば/手に入れば)私は幸せ」
考え方によって、自分を「不幸」だと定義している。それ自体が、「不幸である」。インドの人々は「足るを知る」とよく言いますよね。
恵まれた現代の日本の人々も、上記のような考え方を普通にしていることが多いのでは、と思います。自分も含めてですが。
「これさえ無ければ」「これさえ得られれば」
その対象はモノとは限らず、人であったり環境であったり、立場であったりするかもしれません。
けれども、それさえあれば/無ければ 自分は幸せだという土台に乗っていると、どこまでもいってもその輪っかの中をぐるぐると。決して抜け出せない世界の住民になってしまう。
何かを得た、と思っていても、人生の流れは変化していくので、「失った」り「壊れた」と思ったりするような事態になる日も来るかもしれません。
老化や、病気などもそのひとつですね。
何でも受容する、甘受する、というのとは少し違う、「足るを知る」がやはり大事なのだなと思います。自分自身の状況や、自分という器、嫌悪や執着につながる自分の願望、言い方を変えれば夢とも言えるようなものも含めて、何か適切、適度に「足りている」状態なのかを、見極めていくことの大切さ。
人生をかけて、それを行なっていくのかもしれません。日本人は受容的なので、捉え方を間違えると「妥協」となり、「怠惰」となり、「人任せ」になり、「日和見」になります。
そうではなく、積極的な能動的な「足るを知る」を、追求していくことが大事なのでしょう。
「嫌悪」と「執着」という、自分を「不幸」にしているかもしれないふたつの感情やジャッジメントに気をつけながら。どちらもうまく手放していけたら良いですね。確かに、嫌悪もなく、執着もなければ、とても自由で幸せなのかもしれません。
今日はこのくらいで。
読んでいただきありがとうございます。
Amari