【偶然性と運命――野球を「哲学」する】vol.1 なぜ野球ファンは「たられば」を語らずにはいられないのか

プロ野球開幕まであと2日。
開幕までになんとか、前回扱った「偶然性と運命」という問題について、少しでも語っておきたい。

注記:今後もしばらくは、「偶然性」と「運命」がテーマになりそうなので、その記事についてはタイトルに【】を付すことにして、開幕後の野球談議は別途投稿していこうと考えております。

ということで、手始めにこの話題から。

 SNS上の阪神ファンが阿鼻叫喚し、「糸原5番」がTwitterのトレンドになるなど、大変な騒ぎになったが、この話題については、賛否両論あると思う。

 率直に言えば、私は糸原が5番を打つことに対して、目くじら立てて反対・批判する気はない。(強いて言うなら、小幡のアピールは首脳陣にどう映っていたのか?という疑問はある。)無論、大山5番で何が不満なのかわからないので、糸原を5番に推す理由もない。長打の可能性が限りなく低い打者が5番にいれば、4番佐藤との対戦を避けるという選択は一気に増えるはずで、その意味では不安もある。しかし、裏を返せば下位打線に長打のある選手がいることで、糸原がはまりさえすれば大量得点の可能性が一気に増える。

 とまぁこんな具合に、5番糸原をめぐって、現段階でいいとも悪いとも言えないだろう、というのが、筆者の立場である。つまり、「結果次第」だと。
 こんな無責任な態度でよくノートなどやるな!と思われるかもしれないが、今回のテーマはまさにこの「結果論」。その視座として、偶然性と運命を考えていきたい。

 「偶然性と運命」というテーマは、ドイツの哲学者ハイデガーの研究の第一人者として知られる、木田元さんの著書から借りてきている。

 悲惨な事態を目の当たりにして「こうなるのが自分の運命だったのだ……」と嘆く悲劇的な事態や、対照的に「運命の人」のような喜劇的な事態など、「運命」は実に様々な顔を持つ。野球で言えば、外野手を交替した途端にそこに打球が飛び、劇的なバックホームでランナーを刺したという高校野球の伝説的な名シーン(言わずもがな、1996年の松山商vs熊本工)や、阪神の横田選手の引退試合で見せたバックホームなど、(バックホーム縛りだけでも!)いくつかエピソードが思いつく。これらは、「打球が来るべくして来て、送球、タイミング、すべてが完璧」と思わせる凄みのある出来事だと思う。また、阪神が最大13.5ゲーム差をひっくり返されたことについても、「これが運命か……」とばかりに、数々のツキのなさを呪った人も多かったことだろう。

 しかし、冷静に考えると、交替したポジションに、バックホームでぎりぎり刺せるくらいのところに打球が飛んだという事実は、「偶然」である。平凡なセカンドフライでもありえたわけだし、三振でも、ホームランでもありえた。阪神が13.5ゲーム差をひっくり返されたのも、偶然が積み重なった悲劇であり、運命であったなどと思い込む必要だって必ずしもない。なにより、大病を患った横田選手は、「なぜ自分が……」と苦悩されたと思うが、横田選手が大病に苦しむことに必然性があった(因果応報のような)とは、まったくもって言えないだろう。こう考えれば、すべては偶然なのである。

 とはいえ、すべてが偶然であるならば、なぜ人々は「運命」などを持ち出すことになるのだろうか。この問いに対して、木田さんは、「運命の人」というイメージを偶然との関係でどう理解すべきかという観点から、説明してくれている。

人との偶然の出逢いを「めぐり逢い」として、つまり運命的な出逢いとして意識するということは、この出逢いをきっかけにして、これまでの過去の体験がすべて整理しなおされ、いわば再構造化されて、あたかもすべてがこの出逢いを目指して必然的に進行してきたかのように意味を与えなおされたということであろう。(木田 2001: 12)

すべてが偶然であるということは、自分が日本に生まれたこと、阪神ファンになってしまったことといったパーソナルな問題から、今日の昼食で牛丼を久々に食べたこと、今朝寝坊したこと、昨日「糸原5番」の記事を見て驚いたこと、数日前にノートを始めたこと、といった些細な出来事レベルまで様々に起こっている。そして、ここに書かなかった出来事の方がはるかに多いということは、言うまでもなかろう。すべてが偶然であるとは、すべての出来事にいえることであり、そうであるとすれば、最早それは何も言っていないに等しいのである。

 しかし、起こっている出来事のなかには、自らの生を決定的に方向付ける何かが時としてある。例えば、阪神タイガースとの出会いは、その後の生を大きく規定することになった。(阪神が勝てば幸せで、負ければ不幸な人生になってしまったのだから!)これは、私の人生において、今日牛丼を食べたという事実とは比較にならない重要性を有する。こうした決定的な出来事は、これまでの人生(一つの物語として理解できる)の意味を一挙に書き換える。すなわち、阪神タイガースに出会う前の自分の人生は、すべて阪神タイガースに出会うために仕組まれていた!とでもいうかのように。(あのときパワプロクンを貸してくれた友人と出会うために、私はこの土地に生まれたのかもしれない……と言うとその友人に失礼ではあるが。)
 阪神タイガースで喩えるのはわかりにくいかもしれない。例えば運命の人と出会い結ばれた人が、「これまで一切モテない日々を送ってきたのは、この人と出会うためだったのだ!」と自らの非モテエピソードを書き換えることは、その典型だろう。かくして、偶然の出来事は、自らの人生における不可欠な契機(≒運命)として意味づけられるといえる。

 このように考えれば、偶然にすぎない出来事が、「運命」の様相を帯びることが野球において散見されることについて、説明を与えられるのではないか。すなわち、野球はそれ自体1回表から始まる一つの人生のようなものであり(あるいはプロ野球のシーズンを一つの人生と捉えてもよい)、その偶然のプレーが試合という生を決定的に規定することで、それが運命として立ち現れるのではないだろうか。野球においても、ほとんどの出来事が偶然であろう。(打順が回ってこない、イレギュラーバウンド、デッドボール、雨で変化球がいつもより曲がる、審判のストライクゾーンが可変的、監督の気まぐれ采配……)しかし、勝敗に直結する出来事は、どれだけ不運な偶然だとしても、「運命」のように思われてしまうのである。(野球の神様は、ここでご登場なさるのだろう。)

 このように、偶然の出来事が「運命」として意味を持って立ち現れるということを、木田さんの説明から引き出すことができる。しかし、こうした見方は、野球を一つの「生」としてとらえる、いわばマクロな視線が前提となっている。これに対して、哲学研究者の宮野真生子さん(カープファン)の野球論は、今ここという問題から、野球と偶然の問題に迫っている。宮野さんは、専門である九鬼周造(『偶然性の問題』の著者)を念頭に置きながら、人類学者の磯野真穂さんとの往復書簡で、野球について次のように言及している。

様々な条件、幾筋もの流れが、その瞬間に「出会い」、偶然に「いま」が産み落とされる。そんなプレーに遭遇するたび、私は現実ってこんなふうに成り立っているんだと驚いてしまいます。と同時に、そこに「美しさ」を感じます。その美しさは、現実が生まれる瞬間の美しさであると同時に、その瞬間を引き受ける選手の強さでもあります。彼らは、最終的に現実は偶然に左右されるものだからといって、努力すること、準備することはやめません。自分の力ではどうしようもないものがあるとわかっていながら、彼らはバットを振り、グラブを出す。必然性を求め、この先の展開を予測し、自分をコントロールしようとしている選手たちは、最後の最後で世界で生じることに身を委ねるしかない。それはどうなるかわからない世界を信じ、手を離してみる強さです。そんな強さをもつ選手たちに私は憧れ、「いま」が産み落とされる瞬間に立ち会って時々泣きそうになります。(宮野・磯野 2019: 95-6)

こうしてみると、宮野さんは木田さんの説明とは逆の方向から、偶然と運命(必然)を考えているようにも思われる。すなわち、野球を一つの人生になぞらえて、その全体像に影響を及ぼす出来事にある種の「運命」を付与するのではなく、その都度生起する出来事――それは偶然の域を出ない——を引き受け、それでも必然性を求めて躍動する選手のプレーのうちに、ある種の「美しさ」を伴う現実=瞬間が生み出されている、というように。こうした「美しさ」を感じてしまうということは、その現実が、単なる偶然を超える意味を持っていることを示しているように思われる。

 宮野さんは、がんとの闘病時に、この文章をのこしている。現実は、時に残酷なものでもある。生の根本的な不確実性に直面していたであろうこのときの宮野さんは、それでも不確実な現実に「美しさ」を直感する、という。すべてが不確実であるからこそ、そこに一つの筋が書き込まれるとき、人はそれを美しいと感じる。野球はまさに、プレーの派手さや豪快さとは全く異質な次元において、美しさを体現する営みなのかもしれない。(無論、このことは野球に限らず、スポーツでも音楽でも芸術一般でも起こっていることだろう。)

 さて、長々と語ってきたが、偶然性と運命をめぐるここでの結論は、大きく二つである。第一に、木田さんが言うように、偶然が運命と感知されることは、物語を劇的に書き換えるような出来事である限りにおいてである、ということ。野球で言えば、「あのプレーがあったから/なかったら…」というような、ゲームの方向性を決定づけるプレーを前にした時、人はそれを単なる偶然として片づけることなく、運命として筋立ててしまうだろう、といえる。このことについては、次回以降、「物語」という観点から再論してみたい。というのも、人間も野球も、物語がなければ始まらないからだ。
 第二に、宮野さんが言うように、偶然の出来事を引き受ける選手のプレーは、現実の「美しさ」を開示する。この「美しさ」こそ、偶然を単なる偶然として片づけさせることなく、出来事をある種の「運命」と思わせる要因となっているのではないか。「美しさ」と言ってしまっては、肝心の問題に蓋をすることになるという批判も考えられるが、むしろこの問題は根本的にブラックボックスなのではないか、とさえ筆者には思われる。

 さて、冒頭の問題に戻ろう。もうほとんどの方が忘れてしまっているかもしれないが、「5番糸原」問題である。
 仮に、糸原が開幕戦でノーヒットに終わり、チームも負けたならば、こんな采配をするチームが負けるのは「必然」だ、といわんばかりの意見が出るだろう。対照的に、糸原が効果的に得点にかかわり、チームが勝利したとすれば、アンチ糸原のファンは「偶然だ!シーズンでトータルでどれだけ貢献するかが問題だ!」というだろう。今回取り上げた「偶然性と運命」の問題を踏まえれば、5番糸原論争なんてものは、些事に見えてしまうかもしれないが、それでもこの論争に対して、今回取り上げた問題は、何らかの示唆をもたらしてくれるように思われる。この段においてようやく、サブタイトルの「たられば」を回収するときが来た。

 「たられば」を言うなかれ……。玄人の野球ファンが口にすることも多いこのセリフだが、たらればのないところに野球談議などあるはずがない。あらゆる野球談議はたらればなのだ。(無論、たらればとは、「あの時ピッチャーを変えていたら」や、「キャンプで守備練習を真剣にやっていれば」といった、ないものねだりで野球を語る一つの論法である。)

 大概のたらればは、負けたチームのファン同士で行われる。2010年の阪神は、能見と岩田がローテを守っていたら優勝していただろうし、2021年の日本シリーズ最終戦でピッチャーを吉田に代えていなければ、オリックスは日本一になれたかもしれない。こんなことを言っても、阪神は優勝できなかったし、ヤクルトの日本一は揺るがない。しかし、こう言うことで、傷ついたファンの心理は多少なりとも安らぐのだ。

 こうしたたらればは、究極のところ「運命」の拒絶に思える。負けを負けとして認めず、こうしていれば勝っていたと嘆く。采配批判は最高の酒の肴である。しかし一方で、たらればを語れど、運命は一向に変化しない。世界線は必ず「負け」という結果に収束する。(シュタインズ・ゲートよろしく。)ではなぜ、それでも人はたらればを語るのか?

 結論は単純である。彼らはたらればを語り運命を拒絶することで、逆説的に運命を引き受けているのである。たらればを語ることは、ありえたほかの世界線を描くことにほかならない。(現実に起こったことが偶然であるなら、他の出来事が起こっていてもおかしくはない。いわゆる「可能世界」の問題。これについてもどこかで言及することになるだろう。)しかし、その世界線は現実にはなりえない。ありえたはずの世界線を知れば知るほど、その世界線が存在しない現実に打ちひしがれる。それゆえに、ファンはありえた世界線を――酒と一緒に――胃の中へ流し込むのである。

 たらればを語ることは、運命の苛酷さを引き受けるための、いわばクッションである。現実の重みに耐えられない人が、一時的に寄りかかるやさしいクッション。しかしそれは長くは続かず、いつかそれから離れて現実を生きなければならない。たらればを語ることで、人は現実を引き受けて、前へと進むことができるのだろう。(フロイトの「喪の作業」を思わせる。)

 さて、再び「5番糸原」論争である。糸原の5番起用に批判的なファンは、得点効率が悪く、結果的チームが負けるという世界線を警戒し、声を挙げている。いうなれば、これは「試合開始前のたられば」である。そうした声を批判することも、嘲笑することも、無論すべきでない。5番で糸原を起用することに「必然性」を見出せないファンは、ありうべき世界(大山が5番を打つ世界線、あるいはサンズが退団せず残留し5番を打つ世界線もあっていい)を見ているのであり、彼らにとって、5番糸原は受け入れがたい世界線なのだ。とりわけそれがまだ起こっていないのだから、声を大にしてどうにか世界線が変わることを願うのも、わからないことではない。(未来を変えることがどれほど困難であれ、少なくともそれは過去を変えることよりも簡単だ。)

 これに対して、筆者は「結果論」として言及を避けた。その理由は、最初に述べたように、心の底から「やってみないとわからないでしょ」と思っているからだ。糸原のプレーが、5番糸原論争に決着をつけるに足る「運命」の様相を帯びる瞬間が、起こるかも、起こらないかもしれないからだ。糸原がサヨナラタイムリーを打つかもしれないし、チャンスで立て続けに凡退するかもしれない。それはもう、本当に偶然だ。

 だとしたら、ファンは「その瞬間」を待望して、信じて応援するしかない。無論、これは5番糸原論争をすべきでない、口を謹んで応援に徹しろ、ということではない。論争は勝手にすべきである。たられば論議はファンの最高の特権なのだから。しかし、偶然を必然に昇華するのがプレーする選手たちである以上、我々は「その瞬間」を見届けなければならない。応援するということは、無数の偶然のなかから必然の筋を描き出すその瞬間を見届け、声をあげ、歓喜することである。

 長々と語ってしまった。もうすぐ、プロ野球が開幕する。今年も無数の偶然の出来事が、運命となってファンを熱狂させることだろう。そして、2022年シーズンが一つの物語として実を結ぶとき、いったいどの球団のファンが歓喜に酔いしれることになるのだろうか。それはまだ、誰にもわからない。強いて言うなら、12通りのありえる世界線がある、となるだろうか。その瞬間を見届けるための一歩が、私は今から待ち遠しくてならないのである。


文献
木田元, 2001, 『偶然性と運命』岩波書店.
宮野真生子・磯野真穂, 2019, 『急に具合が悪くなる』晶文社.

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