「劇的」なるもの
後輩から薦められて、くどうれいんの『氷柱の声』を読んだ。
東日本大震災をテーマにした小説で、短くて読みやすい。
前回の芥川賞の候補作だが、著者が自分よりも若くておののいている。
以下あらすじ↓(一部時系列を変えています)
美術室で絵を描く毎日を送っていた主人公の伊智花(いちか)は、高校2年生のときに盛岡で被災し、自分も家族も大きな被害を受けなかった。
その後、先生に懇願されて被災地に送るための花の絵を描いたことがきっかけで、伊智花は新聞社から取材を受けることになる。記者の質問は、絵を通して被災地にどんなメッセージを届けたいか、沿岸部での思い出はあるかなど、絵の構図や細部ではなく“高校生が被災地のために絵を描いた美談”に終始し、絵を見てくれないことに強い違和感を抱いた。
伊智花はその後大学に進学する。そして、福島で被災し、周りの友人たちは家族や家を失うなかで、自分は何も失わなかったことへの負い目から、人一倍努力して人の役に立たなきゃいけないのだと思い医学部に進学したトーミや、震災で家族を失うも、周りから「被災者だからちやほやされている」とか、何を話しても「きれいごと」だと言われ、それを受け入れて生きようとする松田と出会う。
大学を卒業後、フリーペーパーを発行する地元の出版社に就職した伊智花は、陸前高田で海の写真を撮り続けている女性を取材することになる。そこで、「記事としてこうした方がうけるんじゃないか」という視点で質問をしている自分に気がつき、「聞いた方が良さそうなこと」ではなく「聞きたいと思ったこと」を質問し、相手にも「そう答えた方が良さそうなこと」ではなく「言いたいと思ったこと」を話すようにお願いする。被災者の声というのは、1人1人違う。氷柱のように太いもの、短いもの、いろいろな声があるのだと気がつく。
この本を読んでまず思い出したのが、福田恆在の『人間・この劇的なるもの』だった。
著書によると、人は誰しも生きていく上で「役割」を演じていて、そのなかでこの役は自分じゃないとダメなのだという必然性と宿命を求めている。その「役割」は一つではなくて、会社員としての役割を演じているときもあれば、友人として、夫としてなど、生きていくなかで様々な役割を使い分けている。小説のなかに出てくる人物たちは、「被災者」としての役割を強制的に背負うこととなり、そのことに違和感を覚えたり、受け入れたりしている。
本のなかで伊智花も話しているが、長くても数時間の取材のなかで聞ける話というのはその人のほんの一部に過ぎない。そのなかで、取材者が演じて欲しい役と、話し手が演じたい役が食い違っていたことが、伊智花が抱いた違和感につながっているのだと思う。
しかし、伊智花のように取材者が聞きたいことを聞かず、相手が話したいことを聞くことが「誠実」だとは思わない。
相手が話したいと思うことをただ話してもらうのは、「傾聴」に過ぎない。
一人の人間のなかでも、役割が変われば話す言葉も変わってくるはずだ。相手が演じたい役割を理解したうえで、自分が演じてもらいたい役割とすりあわせて、質問していく。それが取材者としての役割なのではないかと、自戒を込めながら考えた。
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