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【楽曲紹介】あやにあとづく

自己満足楽曲紹介シリーズ・第5弾です。
第4弾までを読んでみたいという奇特な方がいましたら、こちらからどうぞ。


今回の楽曲紹介のテーマは「奇跡」です。
「奇跡」と題する曲は「奇跡」と題するだけあって良い曲が多い、という話。

ちなみに、このシリーズとは別で以下の記事を書いたところ、自分には勿体無いくらいの反響が(主にエビ中ファミリー界隈から)あったのですが、「歌詞も曲も歌も取り上げちゃえ!」という、「ハンバーグカツカレー&ラーメン(半チャーハン餃子セット)」ぐらいの強欲っぷりで、なにぶん私の手には余りすぎる構成でした。


しかし、まだいくらか馴染みのある「言葉」だけに着目した方がいいだろうと思い直し、今回の記事では再び歌詞に主眼を置きました。
「奇跡」という曲を通して「奇跡」の捉えられ方を考えてみる記事です。


1.奇跡 / スガシカオ

スガシカオさんの18枚目のシングル『奇跡/夏陰/サナギ』(2005年発売)に収録。作詞はスガシカオさん。

間奏・Aメロのファンキーで泥臭いギターと思わずノってしまうリズムとが、退廃的な日常と奇跡が近づいてくる予感による胸のざわめきとの対比にマッチしていて、そこから爽快感・飛翔感のあるサビへと開けていく感じが素晴らしい。

いま 奇跡が起こりそうな予感に
抑えきれないくらい 胸騒ぎがするけど
きっと ぼくと同じこの瞬間を
世界のどこかで 君も感じているはず

「奇跡」という言葉が用いられるのはこのサビの部分。ここでの「奇跡」の意味がどのようなものかを考えるにあたり、まずAメロ・Bメロの歌詞を見てみます。


1番・2番のAメロでは、「落書きでうまった白い壁」や「やけたロードショウのポスター」、「照りつける太陽光」、「光化学スモッグ警報」、「町中のダルイ空気」など、やる気を削ぐような描写を通して、日常の停滞感、繰り返す日々の閉塞感が描かれます。
続いてBメロでは「ユメと希望」なんて疑わしい、「無限の未来と自由」なんて薄っぺらい、という気持ちが語られます。現代日本において多くの方が一度は抱いたことのある、偽らざる本音と言えそうです。抱いたことのない方はそのまま幸せに生きていきましょう。
これらからすると、この日々が遠い未来に続いていることを頭では理解しつつも、同じように繰り返す日々の現実感のなさ(この人生の「箱庭」感とでも言いましょうか)にうんざりして、「いまこの瞬間をどうにかしたい」というやりきれない想いを抱えていることが分かります。

そして先に引用したサビに繋がり、ようやく訪れた「奇跡の予感」に胸のざわめきを感じ、いてもたってもいられない様子が描かれます。

一見すると、すっと入ってくる、ストレートで明瞭な歌詞な気もしますが、改めて読むと不思議だなと思いました。
「いまここにある現実」以上に疑いようのないものはなさそうに思えますが、あまりの味気なさ・退屈さ・閉塞感ゆえに徐々にリアリティが欠けてくる(あるいは「本当に現実なのか?」と目を逸らしたくなる)
逆に、「奇跡」なんて本来は予感できるものでもなく、最もリアリティに欠けるもののように思いますが、その予感にこそ胸がざわつき、生きている実感を取り戻せる気がしてくるという逆説
そんな倒錯した人間の心理、その不思議さが表れているように感じます。

さて、ここでの「奇跡」は、人生を(あるいは自分を)変えてくれるドラマチックな出来事と捉えられているようです。とても標準的な「奇跡」の捉え方と言えるかもしれません。
日常を変えるわけですから、普通ではない出来事、という「奇跡」の辞書的な意味とも合致するでしょう。

他方で、海を割るとか水をワインに変えるとか、そういう類の「奇跡」ではなさそうです。
というのも、「奇跡が起こりそうな予感」という歌詞にある通り、ここでは「奇跡」が予感し得るものとして捉えられています。
「予感」し得るということは、「奇跡」が起こる前触れ・証拠となり得る事象がある、つまり「奇跡」が起こることについて何らかの因果的な説明ができると考えられている、ということではないでしょうか。
なんとなく奇跡が起こりそうだなと思っているだけで、起こることの前触れを実際に覚知していなければ、「抑えきれないくらい胸騒ぎがする」ようなことはないでしょう。

そして、「奇跡」について因果的な説明が可能という考え方は、少なくとも原理的には自分(人間の側)でも奇跡を起こすことができる、という考えに繋がるように思います。
ここで参考になるものとして、以下の文章を引用しておきます。「奇跡」に関して論じた本ではありませんが、「運」という言葉の意味と「運命」との違いについて言及した箇所です。

 ときに「運」は、「運命」と同様に「必然」寄りのニュアンスを帯びることもあるが、どちらかといえば「偶然」の領域に重心を置いた言葉だということである。
 この特徴は「運」と「運命」の間に重要な違いをもたらす。ある出来事が運命として──とりわけ、理由や原因のある必然的な作用として──捉えられる場合、少なくとも予期の可能性が閉じられることはない。たとえば、地震を止めることは人間には不可能だが、もしもその原因を詳細に究明することができれば、地震の生起を予期し、あらかじめ何らかの対策を施すことができるだろう。また、地震の原因がそれこそ神の怒りといった超自然的なものであるとしたら、神に供物を捧げてその怒りを鎮めることによって、地震の発生自体をコントロールすることができるかもしれない。(仮に、神の怒りと地震の発生というこの因果関係が、客観的には迷信や妄想の類いであるとしても、そう信じる人々自身は運命を変える希望を見出すことができる。

古田徹也『不道徳的倫理学講義ー人生にとって運とは何か』(ちくま新書,2019)
(※太字は引用者による)

「奇跡は起こるもんじゃなくて起こすものだと 手当たり次第ボタンがあれば連打した」と叫ぶRADWIMPSの「君と羊と青」も、これに近いものを感じます。

上記引用部の最後の括弧書きと同様、「奇跡」について因果的な説明が可能という立場であっても、実際にはその因果的な説明は迷信で、あくまでもそれが真だと信じているに過ぎない、という可能性もあります。
しかし、停滞した日常から抜け出すためには、さしあたりそれで十分なわけです。

以上からしますと、この曲における「奇跡」は、神秘的な事柄ではない、確率的には低いけれど、ある程度起こり得る、場合によっては人間が起こすこともできる、というくらいのニュアンスになるでしょう。
「奇跡」という題材の捉え方は非常にポップで身近なものと言えそうです。


2.奇跡 / cinema staff

cinema staffの4枚目のミニアルバム『SALVAGE YOU』(2012年発売)に収録。作詞はベースの三島想平さん。

「君のいない街」で思い出に浸りながらも、新たな出発を決意する、疾走感あふれる1曲です。

歌詞の冒頭の「重ね着のコートを脱いで駆け抜けた。」、「君のいない街に初めての季節。」というところからすると、季節は冬から春の間くらいでしょうか。
寒い中を全力で走った直後の、なんとも言えないあの喉の苦しさが思い出されます。運動音痴の私だけでしょうか。
そんな中でもつぶやく独り言。もっとも、何と呟いたかは明示されません(が、もしかすると「伝え損ねたこと、もう覚えてないや。」がそれかも?)。

夕暮れ時、空は茜色に染まり、一日の終わりが近づいていることを告げます。
そして「僕」は、「進む支度」をはじめることを、「次の言葉」を見つけることを、決意します。


さて、この曲で「奇跡」という言葉が用いられるフレーズは全体で4箇所あります。

「奇跡はいらない。荷物になっちまうでしょう。」
「奇跡はいらない。踏み出せなくなるでしょう。」
「奇跡は起きない。理由がないからね。」
「奇跡はいらない。荷物になっちまうでしょう。」

まず気になるのはやはり「奇跡はいらない。」、そして「荷物になっちまう」「踏み出せなくなる」。
「奇跡」と題する曲にもかかわらず、「奇跡」に対する否定的な態度が示されます。これだけでもう引き込まれますよね。大好きです、この歌詞。

「奇跡」の意味について1曲目と対比するにあたって、一度歌詞全体に目を向けてみます。

改めて通して読んだ印象ですが、おそらくこの主人公は、完全には前を向き切れておらず、まだ少し過去に心残りがあるために、半ば無理矢理に前を向こうと自分に言い聞かせている(≒奮い立たせている?)のではないかと感じました。
「伝え損ねたこと、もう覚えてないや」も、本当かどうか怪しいところです。むしろなんとか忘れようとして無我夢中で細長い坂を駆け抜けたのではないか、という気さえします。

さらに引っかかるのは「夜の匂いに変わったら、進む支度を始めよう。」、「茜色に染まったら、次の言葉を見つけよう。」という文。進む支度・次の言葉の発見に付される開始の条件。
無条件に今すぐそれらを始めようとしないことこそ、今の状態・心境から抜け出し切れていない証拠ではないでしょうか。

茜色に染まるから、今日も明日もその思い出も。
奇跡はいらない。荷物になっちまうでしょう。

今日も明日もその思い出も、そのうち終わり、過去になってしまう。前に進まなきゃいけない。
そんな過去への想いと否応なく進む時間との間にあって、未来へ進むことの妨げになってしまうよな「奇跡」はいらないんだと、自分に言い聞かせているのかもしれません。

ところで、この歌では「理由がないから」「奇跡は起きない」とされています。裏を返せば「奇跡」は理由があって起きることだと捉えられています。
この「理由」がどういう性質のものかは分かりません。「奇跡」を物理法則に従って発生させる原因のことか、奇跡が降り注ぐに足るほど清廉な人格か、はたまた別の何かか。
いずれにしても「奇跡」の発生に「理由」が求められている以上、この曲における「奇跡」も、1曲目と同様、少なくとも原理的には因果的な説明が可能なものと考えられている気がします。

ところで、なぜ「奇跡」が「荷物になる」もの、「踏み出せなくなる」ものとして捉えられているのでしょうか。
これは素直に読むと、「奇跡」の内実が、既に過ぎ去った何かを覆すようなものを指していて、そうであるために未来へ進むことを妨げてしまう、という意味のように思えます。

他方で、次のような意味も含まれているのではないかと思いました。

この主人公は、これから前を向いて、自分の手で選び、自分の足で歩いて行こうとしている。
「よそ見してけつまずいても 今更だ。振り向くことなかれ!」という歌詞にもその決意が表れています。
それにもかかわらず突如「奇跡」が起きてしまうと、それを引き受けて進まなければならなくなる、あるいは、少なくともそれに見合うような道を選ばなければならなくなる。そう考えてしまわないでしょうか。
「奇跡」とはいわば天恵。贈り物のようなもの。贈り物、すなわち贈与は一見、見返りを求めないものとして行われますが、その実、受贈者の側は負い目を感じ、なんらかの返礼をしなければならないという義務感を負うことが往々にしてあります。互酬性・返報性というのでしょうか。

キリスト教に関しても、イエスの自己犠牲による原罪の贖いが一種の贈与であり、そのことがより大きな負債として信者にのしかかったとの考え方がありますが、これに近いかもしれません。

「イエスの広大な愛による自己犠牲、自らの生命・身体の留保のない贈与のおかげで、人々の罪や穢れは「無償で」赦されるのである。そして、そんなイエスの犠牲を信じることによって、人々は「義とされる」。」
「人々は過ち、罪、穢れから赦され、解放された。そう思えた。しかし、逆説的にも、もっと大きい負債=恩を担うようになったのである。
 いったいどうすれば、この大きな愛の贈与、気高い生命・身体の犠牲──まさに恩寵にほかならない犠牲──に応えることができるのか。」

湯浅博雄『贈与の系譜学』(講談社,2020年)

そのような「奇跡」による負債を負うと、その後の人生は知らず知らずのうちにそれに引きずられかねない。自分の手で人生を選択しているつもりでも、そう言い難い状況になる。無意識的・潜在的な層では負債に引きずられている可能性がある。
言い換えれば、むしろそういう贈与的な引力を拒否し、自ら選び取ることで、その選択を自らで引き受けることができるようになる。
そういう意味合いが読み取れるかもしれません。

そう考えると1曲目の「奇跡」は、「奇跡」を期待している分、むしろ「奇跡」に振り回されていて、余計に「箱庭」感が強調されている感じもしてきます。


3.奇跡 / amazarashi

amazarashiの2枚目のミニアルバム『ワンルーム叙事詩』(2010年発売)に収録。作詞はボーカル&ギターの秋田ひろむさん。

全体的に鬱屈とした雰囲気の歌詞で、私は終始「痛み」というワードが思い浮かびます。
生を受けることも生を続けることも生を仕舞うことも常に「痛み」が伴う。そんな痛みの叫び。

「奇跡」に関する歌詞は1番サビあたりから出てきます。
2番Aメロでは、「『こんなはずじゃない』と思うのは僕らの傲慢で」と、公正世界仮説的な見方が一蹴され、むしろ生きていること自体が「奇跡」なのではないかという発想の転換が語られます。

核心はもっと深いところ 僕が生まれた所以に至る
父と母の出会いから もっと言えばその血筋から
そして最後に行き着く場所は 宇宙の始まり その確率

「天文学的数字」「天文学的確率」というフレーズがよくありますが、そういう捉えられ方ですよね。
これも、確率的には限りなく低いけれど絶対にあり得ないというほどではない、というニュアンス。
この点では1曲目・2曲目と通底するものがあります。
他方で、1曲目・2曲目における「奇跡」はこれから起こり得る事象として描かれていましたが、ここではもうすでに起こってしまっているものがベースとされています。

しかし、ここで気になるのはCメロ。

唇噛み締めて自分の無力さになす術なく 泣いた悔しさ
身体半分持ってかれるような 別れの痛みとその寂しさ
それさえも奇跡だと言えたなら 思えたなら
無価値なことも特別になる ありのままで奇跡だから

ここは、生まれたことが奇跡であれば生きている間に起こることもまた奇跡だということの一例として、苦しみを挙げているように思えます。
しかし、「それさえも奇跡だと言えたなら 思えたなら」という部分、仮定的な表現になってますよね。
この部分からすると、「生まれたことが奇跡」ということを信じ切れてない感じがします。
むしろ自分の生を肯定するために、また言い聞かせてるかのような。「奇跡」に縋らないと肯定できないという、これまた別の苦しみ・痛み。

そう言えばサビの歌詞も。

「生まれた事が 奇跡だったら 息をするのも 奇跡 奇跡
ここで笑うか 泣き喚こうが どっちにしても 奇跡 奇跡」

「生きてる事が 奇跡だったら つまずいたのも 奇跡 奇跡
歩き出すのも 諦めるのも 好きにさせろよ 奇跡 奇跡」

この最後の部分、改めて読むとかなりしんどいです。
生きていることが奇跡であるとすると、「歩き出すのも 諦めるのも」奇跡になってしまう。
全てが神の仕業で、必然かのような色彩を帯びてしまう。
「いや、いい加減俺の好きにさせろよ、奇跡」と。


4.奇跡 / PK shampoo

PK shampooの1stシングル『奇跡』(2019年)に収録。作詞はボーカル&ギターのヤマトパンクスさん。

まるで僕ら奇跡だ
わかりあう為に買った缶ビール飲み干して
ブリーチしたみたいな雲
水道を伝う水の透明さ忘れない

1行目から「奇跡」という単語が用いられます。
「僕ら」は(「奇跡」そのものではないが)まるで「奇跡」のようだ、という文により、「僕ら」に対して驚きを禁じ得ない様子が端的に表現されます。
「わかりあう為に買った缶ビール飲み干して」は大学時代の青春の1コマみたいですよね。

「ブリーチしたみたいな雲」「水道を伝う水の透明さ」という印象的なフレーズが続きます。

「雲」はもちろん自然に生じるものですから、「ブリーチ」なんて人為的な行為を施しようがないですが、そんなあり得ないことをしたんじゃないかと思うくらい、綺麗な白色の雲を見た。そういう驚きでしょうか。

逆に「水道を伝う水」は浄水措置を施されたものですから、自然に対して人為が加えられたことの象徴と言えそうです。それはもちろん綺麗なのですが、無駄が入り込む余白がない感じというか、粗雑物を取り去った後の不気味さというか、そういうところも見え隠れします。

これらはいずれも「忘れない」経験として挙げられています。
おそらくはこれらも「奇跡」のひとつなのでしょう。

ところで、この歌の歌詞で私が一番好きなのは以下の部分です。

夏の大三角、にじんでる汗
海までの道を歩いてく
君よ、統計学上の人にならないで

ここで、これまで見てきた「奇跡」の概念が転倒します。むしろ本来的な意味が復権すると言った方がいいかもしれません。

ここまでの3曲における「奇跡」はいずれも、程度の差こそあれ、確率的には低いが因果的にあり得ないものではない、という意味合いに思えました。
確率というのは結局数字の世界の話で、因果的な説明というのは普遍的な法則の適用の話。
要するに、個別の事象に着目せず、その「個」性を捨象して、それをある類型の1つと見る、ということ。

逆に、「統計学上の人にならないで」とは、そういう見方に囚われてしまい、この出来事を確率や度数などで捉えるような人にならないでほしい、という意味。「統計上の人」ではなく「統計上の人」というのが味噌。
データだとか標本だとか分布だとか、そういうことではなくて、奇跡なんてものは、そもそも確率や因果的な説明を超えたところにあるものだろ、と。
そういう数理的・合理的な世界分節では捉え切れない、それとは異なる地平に属する事象を、僕と「君」がともに経験したことこそが「奇跡」。この「奇跡」に対する驚きを忘れないでほしい。

こう考えると、自然にできた雲の、あり得ないような白さが現にあることに驚くことや、水道を伝う水の透明さがあり得るものでかつ現にあることを不気味だと感じることも、数理的・合理的な世界分節とは異なる地平への志向として捉えられそうです。

くだらない汗はもうかかない
だけど、君が笑ったら笑えそう
君よ、統計学上の人にならないで

大人になり、必要性と有益性のために生きる日々。くだらない汗はもうかかない。
そんな中でも「君」が笑ってくれれば、自分もまた笑って「奇跡」を感じられそう。
だから、あの「奇跡」に対して感じた驚きを忘れないでほしい。

素晴らしすぎる。


5.奇跡 / くるり

くるりの24枚目のシングル『奇跡』(2011年発売)に収録。作詞は岸田繁さん。
言わずと知れたくるりの名曲。畏れ多くも取り上げます。

いつまでも そのままで 泣いたり 笑ったりできるように
曇りがちな その空を 一面晴れ間に できるように

この歌詞から歌が始まります。とても優しい言葉。

しかし「一面晴れ間にできるように」は一見語呂も雰囲気も良いんですが、形容矛盾に思えます。
というのも、「晴れ間」は「一時的に雨がやみ雲がなくなったとき」や「雲の切れ間からのぞく晴れた空」などの意味なので、少なくとも後者の意味は、「面全体。あたりいっぱい。」という意味の「一面」と整合しません。
単に「一面晴れにできるように」だと語呂が悪いから「晴れ間」で代用しただけという可能性もありますが、それだとあまり面白くないですよね。

整合的に読むとすれば、「一時的に、一面が雨・雲がなくなった状態にできるように」あるいは「少なくとも自分から見えるところ(あたりいっぱい)は雨・雲がない状態にできるように」というところでしょうか。
いずれにしても「一時的に」とか「自分から見えるところは」といった、時間的あるいは場所的に限定された意味合い、暫定的・部分的な意味合いが含まれており、この主人公の控えめな性格が表れている気がします。

他方で、あえて形容矛盾な言葉遣いをすることで、むしろ暫定的・部分的な幸せではなく、悠久に続く幸せが全体に満ちている状態を願うという含意もあるかもしれません。控えめな性格に反して願う内容の壮大さ。

さて、この歌の歌詞では「奇跡」という単語は用いられていませんが、「奇跡」に関連するのはおそらく以下の部分でしょう。

退屈な毎日も 当然のように過ぎてゆく
気づかないような隙間に咲いた花 来年も会いましょう

奇跡とは「奇」の「跡」。
ふつうでないこと、不思議なこと、根拠のない事態の、跡が残っているということ。
特定の物事があるということではなく、一切の物事が(あるいは世界が)「在る」という事態。そのことの表現できない神秘性を、この花に見出します。

「存在の無根拠性。それは、万物が在ることに、いささかも必然的理由や目的がないのに〈在ること〉を、意味します。(中略)万物は無くてあたりまえ、無いことこそオリジナル、在るなんてことがむしろ異様、なのに在るということです。」(p119)
「《理論上、絶対に在りえないこと、在るはずのないことの実現》を、奇蹟とか神秘と形容することはゆるされましょう。だとすれば、なんであれ、ものごとが「在る」ことそのことは、それだけで無条件に、稀有で、奇蹟的なできごと、ということになります。」(p121)

古東哲明『沈黙を生きる哲学』(夕陽書房,2023)

「気づかないような隙間に咲いた花」という歌詞。この花には名前がありません。
無論、主人公が名前を知らないだけ、ということだと思われますが、この主人公の無記名性を考慮すれば、およそ人が名を知らない花を指すと解釈することは許されるかもしれません。
名指しまたは言葉による分節以前の世界の存在。それにまつわる奇跡。

あるいは、ここでこの主人公が気づいた事物は「花」であってもそうでもなくてもよいはずで、「花」である必然性はないわけです。たまたま「花」が目についた。
したがって、むしろこの「花」には象徴としての意味しかなく、「花」が在ることへの驚きというよりも、一切の物事あるいは世界が「在る」ことへの驚きを表しているのだと思います。
人間にとって一番身近で、いつもそこに住んでいる「世界」が「在る」という事態の温かさ。

涙が出ますね。


というわけで私の「奇跡」5選でした。
他にも取り上げようと思った曲があったのですが、今回は泣く泣くこの5曲に。
他にもいろんな「奇跡」がありそうですね。

今更ですけど、歌詞について主観バリバリの感想を書き連ねたり、本を引用して牽強付会な解釈をしたりするこの記事が、本当に「楽曲紹介」なのか、あやしいところです。
まぁ「(私流の)楽曲(の楽しみ方)紹介」と言葉を補って読んでもらえれば。

ちなみにタイトルの「あとづく」は「跡付く」みたいな意味合いで付けたつもりですが、ググってみたらそんな言葉はありませんでした。残念。

それでは。

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