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客観的であること/第三者であること/当事者じゃないこと
私が向き合う仕事
造形の先生
という仕事を振り返って
今、大切だったと思えること
そしてこれからも
大切にしていきたい
と思うこと
それは
当事者じゃない
という立ち位置。
当事者がいい悪いではなくて。
どこにも属さず、
第三者で、
いつでも
何にでも
距離を置くことができ、
時間をとることができる
そういう位置に
気づいたらいたし、
気づいてからは
それを大事にしてる。
当事者だからこその力もある。
だからこそ、
当事者じゃないからこその
力もある。
具体的に言うと
こどもたちと向き合う仕事だけど、
私は家族にこどもはいない。
産んでいない。
子育ての大変さは
想像しかできない。
想像だけでも
大変さは計り知れない。
想像だけで
愛しさも計り知れない。
造形の先生として
こどもたちと向き合い始めて
数年経ってから、
せんせいが私の天職だと気づいた。
数年、?10年、くらいかな。
それと、
それだけではない
色んな理由で
私はこどもを産まなかった。
もし、なんて言ってもしかたないけど
わたしはこどもがうまれたら
お母さんしたい。
でも、私は、
造形のせんせい、
したかった。
両方という選択は
たくさんの理由からなくて、
お母さんになるよりも
せんせいでいたかった。
私の母は小学校の先生で
共働きで
きょうだい3人を育ててくれたし、
そこに満たされなかったことなんて、
何ひとつなかったし、
共働きだって、
子育てはできる。
できる社会であるべきだと思う。
だから、わたしがそうしなかったのは、
一般論ではなくて、
ただただ、私個人が、
私を知ってる、私が、
えらんだ、私の道。
で、話は戻って、
私には、時間がある。
たくさんのこどもをみて
家に帰ってからも、
それぞれの子を思い出しながら
客観的に
あのこやこのこを思い浮かべて
考える時間がある。
主観的になる瞬間はなく、
どのこも
同じくらいの愛しさで
どのこも客観的に
分析する時間と距離がある
そしてそれを頭に
心に
ストックして
同じ子なんて
1人もいなかった、
たくさんのこどもたちと
向き合う。
それは本当に貴重な感覚だと
思ってる。
ずっと一緒にいないからこそ
いいことばっかり
みえることもある。
ずっと一緒にいないからこそ、
違和感に気づけることもある
ずっと一緒にいないからこそ
いつもご機嫌で
会えるのかもしれない。
そういう
特別な、ラッキーな地位に
自分を置きつつ
甘んじることなく
アンテナ全開で
こどもたちから発される
言葉を、心を、
拾っていきたいと思う。
そして、
拾えるのだとおもう。
客観的に。
第三者の目線で。
愛をもって。
私は、第三者として
子育てに
参加する。