【1万字最速レビュー】映画「ミッシング・チャイルド・ビデオテープ」徹底考察:ホラー苦手な筆者が見た率直な感想
はじめに
今回は、2025年1月24日に公開された映画「ミッシング・チャイルド・ビデオテープ」のレビューをお届けする。
私は普段、ホラー映画を積極的に観る方ではない。血みどろの描写や突然の驚かせ方に心臓が耐えられないのだ。しかし、この作品には何か特別なものがあるとの噂を聞き、勇気を出して初日に劇場に足を運んだ。
結論から言えば、これは単なるホラー映画ではない。人間の記憶と過去、そして家族の絆を深く掘り下げた、心理スリラーとも呼べる作品である。
本作は、観る者の心に静かに忍び寄る恐怖を描き出すことに成功している。それは、目に見える怪物や幽霊ではなく、むしろ見えないものへの不安、過去の記憶の曖昧さ、そして人間の心の闇から生まれる恐怖だ。
このアプローチは、ホラー映画が苦手な私のような観客にも、十分に楽しめる要素となっている。
あらすじ
「ミッシング・チャイルド・ビデオテープ」は、過去のトラウマと向き合う主人公の心理的葛藤を軸に展開する、深みのあるホラー作品だ。
主人公の兒玉敬太(杉田雷麟)は、幼少期に弟・日向と山で遊んでいた際、弟が失踪するという忌まわしい過去を持っている。その経験から、現在は行方不明者を探すボランティア活動に従事している。この設定自体が、敬太の心の傷の深さを物語っている。失踪した弟を見つけられなかった自分への贖罪なのか、それとも同じ経験をする人を少しでも減らしたいという使命感なのか。敬太の行動の背景には、複雑な心理が垣間見えるのである。
物語は、敬太のもとに母親から一本の古いビデオテープが送られてくることから始まる。そこには、弟・日向が失踪する瞬間が映し出されていた。この展開は、観客の心に不穏な空気を漂わせる。なぜ今になってこのテープが送られてきたのか。母親の意図は何なのか。そして何より、このテープに映っているものは本当に現実なのか。様々な疑問が湧き上がるのである。
霊感を持つ同居人の司(平井亜門)は、このテープに不吉な気配を感じ取り、敬太に深入りしないよう忠告する。司の存在は、現実世界と霊的な世界をつなぐ架け橋として機能している。彼の警告は、これから起こる出来事の不吉な前触れとなっているのだ。
しかし、敬太は長年抱えてきた過去の真相を明らかにするため、行動を起こす。彼の取材を目的に接近していた新聞記者の美琴(森田想)も同行し、3人は日向が失踪した山に向かう。この決断は、敬太の内なる葛藤を表している。真実を知りたいという欲求と、それによって崩壊するかもしれない自身の世界観との間で揺れ動く敬太の姿が、観客の心を掴んで離さないのである。
作品背景
「ミッシング・チャイルド・ビデオテープ」は、近藤亮太監督の長編映画デビュー作である。本作は、2022年末に開催された「第2回日本ホラー映画大賞」で大賞を受賞した短編作品を、監督自身が長編化したものだ。この経緯自体が、本作品の持つ潜在的な魅力を物語っている。短編で高い評価を得た作品を長編化するということは、そこに普遍的な恐怖や人間ドラマが存在していたことを示唆しているのだ。
近藤監督の経歴も、本作の質の高さを裏付けている。彼は「リング」シリーズの脚本で知られる高橋洋氏に師事し、Netflixドラマ「呪怨:呪いの家」でも助監督を務めるなど、ホラージャンルでの経験を積んできた。これらの作品は、日本のホラー映画の黄金期を代表する作品であり、そこで培われた技術と感性が本作にも活かされていることは想像に難くない。昨年は「飯沼一家に謝罪します」の監督も務め、ネット界隈では年末考察合戦が繰り広げられたのも記憶に新しい。
さらに注目すべきは、Jホラーの重鎮として知られる清水崇氏が総合プロデューサーを務めている点だ。清水氏は「呪怨」シリーズなど、数々の名作ホラーを世に送り出してきた人物である。彼が本作に関わっているということは、業界からの期待の高さを示すと同時に、本作が日本のホラー映画の伝統を受け継ぎつつ、新しい風を吹き込もうとしていることの表れでもある。
近藤監督は本作について、「本当に怖い映画を作りましょう」という言葉を指針に制作に臨んだと語っている。この言葉には、現代のホラー映画への批判的な眼差しが感じられる。近年のホラー映画は、CGや特殊効果に頼りすぎているという指摘がしばしばなされる。
それに対して近藤監督は、CGや特殊メイク、ジャンプスケアを一切使用せず、古典的な手法で恐怖を描き出そうとしたのだ。
このアプローチは、かつてのJホラーの魅力を現代に蘇らせようとする、監督の強い意志の表れと言えるだろう。
日本のホラー映画は、目に見えない恐怖、心理的な恐怖を描くことに長けている。「リング」や「呪怨」といった作品が世界的に評価されたのも、この特徴によるところが大きい。近藤監督は、その伝統を受け継ぎつつ、現代的な文脈で再解釈しようとしているのである。
このような背景を持つ「ミッシング・チャイルド・ビデオテープ」は、単なるホラー映画ではなく、日本映画の伝統と革新が交錯する、注目すべき一本となっているのだ。
当チャンネル独自のレビュー、考察
VHSテープが紡ぐ、記憶と現実の狭間
本作「ミッシング・チャイルド・ビデオテープ」の最大の特徴は、VHSテープという古めかしいメディアを通じて、過去と現在を繋ぐ物語構造にある。
デジタル全盛の現代において、アナログメディアであるVHSテープを中心に据えたこの設定は、単なるノスタルジーを超えた深い意味を持っているのだ。
粗い画質のVHS映像は、それ自体が不気味さを醸し出し、観る者の想像力を掻き立てる。デジタル映像の鮮明さに慣れた現代の観客にとって、VHSの不鮮明な画像は、どこか現実離れした、異質な雰囲気を醸し出す。
この「異質さ」こそが、本作の恐怖を増幅させる重要な要素となっているのである。
しかし、この手法は単に懐かしさを狙ったものではない。VHSテープという、今や過去の遺物となったメディアが、失われた記憶や忘れられた真実を内包しているという設定は、非常に示唆に富んでいる。
現代社会において、デジタルデータは容易に編集・削除が可能だ。一方、VHSテープは物理的な存在であり、そこに記録された映像は、良くも悪くも「事実」として残り続ける。この対比は、現代社会における記憶や真実の扱い方に一石を投じているように思えるのだ。
さらに、我々の記憶も、時として曖昧で不確かなものである。
年月が経つにつれて、記憶は薄れ、時には歪んでしまうことさえある。本作は、そんな人間の記憶の脆弱性を、VHSテープの粗い画質に重ね合わせているのだ。VHSテープの不鮮明な映像は、私たちの曖昧な記憶の比喩として機能しているといえる。
この設定は、観客に「記憶とは何か」「真実とは何か」という深い問いを投げかける。
私たちが「真実」だと信じている記憶は、本当に真実なのだろうか。それとも、時間とともに歪められ、再構築された「偽りの記憶」なのだろうか。本作は、この問いに対する明確な答えを提示するのではなく、観客自身に考えさせる余地を多分に残しているのだ。
恐怖の本質:見えないものへの不安
近藤監督は、本作で「目に見えない"何か"が怖いのだ」という考えのもと、登場人物たちが感じる恐怖心を観客と共有することを目指したと語っている。このアプローチは、現代のホラー映画の主流とは一線を画すものだ。
多くの現代ホラー映画が、グロテスクな映像や突然の驚かせ方(いわゆる「ジャンプスケア」)に頼る中、本作はそれらを一切排除している。代わりに、登場人物たちの不安や恐怖を丁寧に描き出すことで、観客の心理に直接訴えかけるのである。
この手法は見事に成功しており、画面に直接的な恐怖の対象が映し出されなくても、観客は底知れぬ不安を感じずにはいられない。これは、人間の想像力の恐ろしさを巧みに利用した手法と言えるだろう。
私たちの脳は、不確かな状況に直面すると、自動的に最悪の可能性を想像してしまう傾向がある。本作は、この人間の心理的特性を巧みに利用しているのだ。
特に印象的なのは、暗い病院?廃墟の中を進む兄の姿を映したシーンである。ここでは、何も起こらないことが逆に恐怖を増幅させる効果を生んでいる。観客は、何かが起こるのではないかという予感に苛まれ、緊張感が高まっていく。しかし、実際には何も起こらない。この「何も起こらない」ことこそが、逆説的に観客の想像力を掻き立て、より深い恐怖を生み出すのである。
これは、人間の想像力こそが最大の恐怖を生み出すという、ホラージャンルの真髄を突いた演出と言えるだろう。
目に見える怪物や幽霊よりも、見えない何かの存在を想像させることの方が、より深い恐怖を生み出すのだ。この手法は、古典的なホラー小説や初期の映画で多用されていたが、視覚効果が発達した現代では忘れられがちであった。近藤監督は、この古典的な手法を現代的に再解釈することで、新しい形の恐怖を創造することに成功しているのである。
家族の絆と過去の呪縛
本作は単なる恐怖映画ではない。その根底には、家族の絆と過去の呪縛というテーマが横たわっている。主人公・敬太が弟の失踪という過去に囚われ続ける姿は、我々が抱える過去のトラウマや後悔の象徴とも言えるだろう。
敬太の行動の背景には、失踪した弟への罪悪感、自分が生き残ったことへの後ろめたさ、そして家族を守れなかったという自責の念が複雑に絡み合っている。これらの感情は、多くの観客にとって共感できるものであろう。私たちの誰もが、程度の差こそあれ、過去の出来事に囚われ、それが現在の行動に影響を与えているからだ。
特に、母親から送られてきたビデオテープを見る決断をする敬太の姿には、過去と向き合おうとする勇気と、同時にその恐ろしさが表現されている。過去の真実を知ることは、時として現在の自分を根底から覆す可能性を秘めている。それでも真実を追求しようとする敬太の姿は、人間の強さと弱さを同時に表現しているといえる。
これは、我々が日常生活で直面する、過去の出来事や記憶と向き合うことの難しさを象徴しているのかもしれない。私たちは皆、何らかの形で過去のトラウマや後悔を抱えている。それらと向き合うことは、時として大きな勇気を必要とする。本作は、その過程の苦しさと、同時にそれを乗り越えることの重要性を描き出しているのだ。
さらに、本作は家族の絆の複雑さも描き出している。敬太と弟、そして母親との関係は、愛情と罪悪感、信頼と疑念が入り混じった、複雑なものとして描かれている。これは、現実の家族関係の複雑さを反映したものと言えるだろう。
このように、「ミッシング・チャイルド・ビデオテープ」は、表面的なホラー要素の下に、人間の心理や家族関係の複雑さを描き出すことに成功している。それゆえに、本作は単なるホラー映画を超えた、深い人間ドラマとしても読み解くことができるだろう。
登場人物の行動と心理
本作「ミッシング・チャイルド・ビデオテープ」の魅力の一つは、登場人物たちの行動や心理が複雑で深みがあることだ。特に主人公・敬太の心理描写は、観客の共感を誘うと同時に、人間の心の闇を覗かせる効果がある。
例えば、敬太が母親の死を知らないフリをする場面は、敬太の複雑な心理状態を表現している。この行動の背景には、いくつかの心理的要因が考えられるのだ。
まず、過去のトラウマからの防衛機制として捉えることができる。弟の失踪というトラウマティックな経験に加えて、母親の死を受け入れることは、敬太にとってあまりにも大きな心理的負担となる可能性がある。そのため、無意識のうちに現実を歪めて認識し、母親の死を「知らない」という形で記憶を抑圧しているのかもしれない。
次に、真相究明への執着が挙げられる。敬太は弟の失踪という「忌まわしい過去」の真相を追求しようとしている。母親の死を認めてしまうと、真相究明の手がかりを失うことになるかもしれない。そのため、意図的に「知らないフリ」をすることで、真相に近づこうとしている可能性もあるのだ。
さらに、複雑な家族関係も影響しているだろう。母親との関係性や、弟の失踪に対する母親の態度など、家族の中で語られなかった真実があるのかもしれない。それらと向き合うことへの恐れが、「知らないフリ」という行動につながっているのかもしれないのだ。
これらの要因が複雑に絡み合って、敬太の「知らないフリ」という行動につながっているのではないか。この曖昧さこそが、観客の想像力を刺激し、より深い共感を生み出している。観客は敬太の行動を通じて、自身の過去や家族関係について考えさせられる。
また、この「知らないフリ」は、本作全体のテーマである「記憶の曖昧さ」「真実の多層性」を象徴しているとも言えるだろう。私たちの記憶や認識は、必ずしも客観的な事実を反映しているわけではない。時に都合の悪い真実を無意識に歪めたり、忘れたりすることがある。敬太の行動は、そんな人間の心理の複雑さを巧みに表現しているのである。
謎めいた展開の考察
本作には、観客の想像力を掻き立てる謎めいた展開がいくつか存在する。これらの展開は、単なる驚きや恐怖を与えるだけでなく、作品のテーマを深める役割も果たしているのだ。それらについても触れておく。
司の運命
司があの世(あっちの世界)に行ってしまう展開は、本作の多層的なテーマを凝縮して表現していると言えるだろう。
司は霊感を持つ同居人として、現実世界と霊的な世界をつなぐ架け橋の役割を果たしていた。彼の存在は、本作における現実と超自然の境界の曖昧さを象徴しているのである。
彼があの世に行ってしまう理由としては、以下のような可能性が考えられる。
敬太を救うための犠牲的な役割: 司は、敬太を現実世界に引き留めるために、自らを犠牲にした可能性がある。これは、友情や愛情の究極の形とも解釈できる。また、この解釈は、本作のテーマである「家族の絆」を友人関係にまで拡張して考えることができるかもしれない。
霊感の強さゆえに、現実と異界の境界を越えてしまった: 司の霊感の強さが、逆に彼を危険に晒す結果となったとも考えられる。これは、能力や才能が時として両刃の剣となり得ることを示唆しているとも捉えることができる。
日向の失踪の真相により近づこうとした: 司が自ら進んであの世に行くことで、日向の失踪の真相を探ろうとした可能性もある。これは、真実の追求には大きな代償が伴うという本作のテーマを強調しているのかもしれない。
この展開は、観客に対する問いかけとしても機能しており、「見てはいけないものを見てしまう」ことの代償や、真実を追求することの危険性を示唆しているのかもしれない。また、現実世界と霊的な世界の境界が曖昧になっていくという本作のテーマを、より強く印象付ける役割も果たしていると言えるだろう。
美琴の腕を掴む謎の手
美琴がある人物に腕を握られる展開は、本作の恐怖を象徴する重要なシーンである。この手の正体については、明確な答えは提示されていないが、いくつかの可能性が考えられる。
失踪した弟・日向の手: これが事実だとすれば、日向が何らかの形で存在し続けていることを示唆する。これは、過去と現在が交錯するという本作のテーマに沿った解釈ともいえる。
山に潜む何らかの霊的存在の手: この解釈は、本作が日本的な土着ホラーの要素を含んでいることを考えると成立する。山の霊や妖怪といった存在が、物語に関与している可能性を示唆している。
敬太や司の手(ただし、超自然的な影響下にある可能性あり): これが事実だとしても、その行動の背後に何らかの超自然的な影響がある可能性は否定できない。実際に敬太や司はそこにはいなかったから、だ。例えば、霊的な存在に憑依されているなどの可能性が考えられる。
いづれにしても、この正体の曖昧さは、本作のテーマである「見えないものへの恐怖」を見事に表現しており、観客の想像力を掻き立てる効果がある。手の正体が明かされないことで、観客はそれぞれの解釈を自由に行うことができ、より深い恐怖を感じることができるのだ。
また、この展開は美琴という「外部の視点」を持つ人物が最終的に恐怖に巻き込まれていくことを示唆しており、物語の閉塞感を高める役割も果たしている。当初は客観的な立場にいた美琴が、最終的には事件の渦中に巻き込まれてしまうという展開は、真実を追求することの危険性を象徴しているとも言えるだろう。
敬太の弟・日向の死に対しての認識
敬太が弟・日向の死を実際に実際に知っていたかどうかは、非常に興味深い考察ポイントだ。敬太の行動や反応には微妙な矛盾や曖昧さが感じられ、これは彼が無意識のうちに真実を抑圧している可能性を示唆している。
トラウマ的な経験を持つ人々が記憶を抑圧したり、現実を歪めて認識したりすることは心理学的にも知られている。これは「解離性健忘」や「外傷後ストレス障害(PTSD)」といった症状として現れることがある。敬太の場合、弟の死という衝撃的な事実を受け入れられず、無意識のうちに「失踪」という形で記憶を書き換えた可能性があるのだ。
この解釈は、本作全体のテーマである「記憶の曖昧さ」「真実の多層性」と密接に関連している。私たちの記憶は必ずしも信頼できるものではなく、特にトラウマティックな経験に関しては、心理的防衛機制が働いて記憶が歪められることがあるのだ。
一方で、敬太が真実を完全に知らなかった可能性も否定できない。幼少期の記憶は曖昧で不確かなものだ。彼が目撃したのは弟が「いなくなった」という事実だけで、その後の経緯については知らされていなかったのかもしれない。この場合、敬太の行動は純粋に真相を追求しようとするものであり、彼自身も真実を知ることで大きな衝撃を受けることになるだろう。
いずれの解釈も、本作のテーマである「過去との向き合い方」「真実の追求」に深く関わっている。敬太の認識の曖昧さは、観客に自身の記憶や過去の捉え方について考えさせる効果があるのだ。
母親の自殺のタイミング
母親が自殺したタイミングについては、様々な解釈が可能である。この出来事は、物語の展開に大きな影響を与えるだけでなく、作品全体のテーマを深める役割も果たしている。
罪悪感と贖罪: 長年、息子・日向の失踪という重荷を背負い続けてきた母親が、ビデオテープを敬太に送ることで最後の贖罪を果たそうとした可能性がある。この解釈は、家族の絆や過去の罪との向き合い方という本作のテーマに深く関わっている。母親の行動は、過去の出来事に対する責任を取ろうとする試みとも捉えられるだろう。
超自然的な影響: ビデオテープに何らかの呪いや超自然的な力が宿っており、それが母親を自殺に追い込んだ可能性もある。この解釈は、本作の持つホラー要素を強調するものだ。現実世界と超自然的な世界の境界が曖昧になっていくという本作のテーマとも合致する。
真実の露呈への恐怖: 敬太がビデオテープを見ることで、長年隠してきた何らかの真実が明らかになることを恐れた可能性がある。この場合、母親の自殺は真実から逃れようとする最後の手段だったと解釈できる。これは、真実の追求が時として予期せぬ結果をもたらすという本作のテーマを強調している。
物語の転換点: 母親の自殺は、過去と現在の境界が曖昧になっていくという本作のテーマを象徴している可能性もある。この出来事を境に、物語はより超自然的な要素が強くなっていくだろう。母親の死は、現実世界と霊的な世界の境界が崩れ始める契機となっているのかもしれない。
これらの解釈の可能性は、本作をより深い考察の対象とし、単なるホラー映画を超えた作品に仕上げている。母親の自殺という出来事は、家族の絆、過去との向き合い方、真実の追求、そして現実と超自然の境界といった本作の主要テーマを全て内包しており、物語の核心を成す重要な要素となっているのだ。
このように、「ミッシング・チャイルド・ビデオテープ」は、表面的なホラー要素の下に、人間の心理や家族関係の複雑さ、記憶の曖昧さ、真実の多層性といった深いテーマを秘めた作品となっている。これらの要素が絶妙にバランスを取りながら展開していくことで、観客に深い考察と強い印象を与える、優れた作品に仕上がっているのである。
おわりに
「ミッシング・チャイルド・ビデオテープ」は、単なるホラー映画の枠を大きく超えた、深遠な人間ドラマである。近藤亮太監督は、古典的なホラーの手法を用いながらも、現代的なテーマを巧みに織り込むことで、新しい形の日本ホラーを生み出すことに見事に成功した。
本作の真骨頂は、「見えない恐怖」を描き出す卓越した技術にある。
VHSテープという古めかしいメディアを通じて、過去と現在、記憶と現実の狭間にある不安を鮮やかに描写し、観客の想像力を最大限に刺激する。それは、ホラー映画が本来持つべき本質的な恐怖を呼び覚ますものだ。
さらに、本作は家族の絆、過去のトラウマ、記憶の曖昧さ、真実の追求といった普遍的なテーマを深く掘り下げている。登場人物たちの複雑な心理や行動を通じて、私たち自身の内なる闇や、日常生活で直面する葛藤を映し出しているのである。
特筆すべきは、本作が私のようにホラージャンルに馴染みのない観客にも、十分に楽しめる要素を持っていることだ。過激な描写や突然の驚かせ方に頼らず、静かに忍び寄る不安感を丁寧に描き出すその手法は、ホラーが苦手な方々にも、新たな視点でこのジャンルを楽しむ機会を提供している。
「ミッシング・チャイルド・ビデオテープ」は、恐怖という感情を通じて、人間の本質や社会の問題を浮き彫りにする、優れた作品だと言えるだろう。それは単に「怖い」だけでなく、観る者の心に長く残り、様々な思索を促す、奥深い作品なのだ。
日本ホラー映画界に新たな才能が現れたことを喜びつつ、近藤監督の次回作を今から心待ちにしている。皆さんも、ぜひ劇場で本作をご覧いただき、その深い余韻に浸っていただければと思う。