見出し画像

自然の悪意から脳の前成説へ─ドゥルーズとヴィジョン(2)


芸術家と哲学者が共有するもの、ヴィジョン

ドゥルーズは哲学者が芸術家とある種の経験を共有していると考えていた。それは圧倒されるという経験、世界の破壊的な威力を被るという経験である。また芸術作品は、そうしたカオスの力を解き放ち、保存し、他者に経験させるための感覚ブロックを創造するいとなみだという。したがって哲学と芸術のあいだには、それらがともに創造行為であるという点のほかに、共有されるヴィジョンと経験がある。ドゥルーズは「芸術家は哲学者のようなものである」と述べる。彼らに共通しているのは、彼らの脆さ、ある種の打たれ弱さである。炭鉱のカナリアともいわれるその繊細さ、抑鬱症、狂気。しかしそれは、彼らの病いのためではない。「それは、彼らが、生のなかに、誰にとっても何か大きすぎるもの、彼ら自身にとっても何か大きすぎるものを見てしまっているからであり、この何ものかが、彼らの死の密やかな烙印を押してしまっているからである」[『哲学とは何か』290]。

芸術家は世界から彼自身が担うことのできないほど大きな力と情動を受けとり、それを知覚すべきものとする。ドゥルーズによると芸術は彼がペルセプトと呼ぶ知覚されるべきものとアフェクト(情動)の創造として定義される。ペルセプトはそれを体験する者の状態から独立しており、アフェクトはそれを被る者の能力を超えている、そうした感覚ブロックの創造である。

芸術家は、見者であり、生成者である。彼はひとつの陰影であるがゆえに、彼が語るものごとは、どうして彼の身に起こったことや彼が想像するものであろうか。彼は、生に、何かあまりにも大きいもの、またあまりにも耐え難いものを、そして、生を脅かすものとその生との密着を見てとってしまい、したがって、彼が知覚する自然の片隅、あるいは都市の街区とそこにいる人物たちは、それらを通してあの生の、あの瞬間の被知覚態(ペルセプト)を合成するひとつの視(ヴィジョン)に達しており、もはやそれ自身以外の対象も主体ももたない、一種の、キュビスム、シミュルタネイスム、なまの光あるいは黄昏、緋あるいは青のなかで、この視(ヴィジョン)が、体験された知覚を炸裂させるのである。

『哲学とは何か』287-288

芸術家はある種のヴィジョンに曝されているがゆえに、哲学者に似て、脆く、フィッツジェラルドやラウリーのように、あるいはドゥルーズ自身がそうであったように、崩れやすい存在である。しかしそれは彼らの弱さのゆえというより、彼らが自然の巨大な諸力に開かれているからでもある。彼らのアルコール中毒症は、ドゥルーズのヴィジョンのなかで、生成変化の経験である。

芸術作品が証言するもの、あるいはまた、ドゥルーズの批評的言語が示すものは、世界には何かカオスの力能のようなものが存在するのであって、それが創造行為の唯一の根拠であるということである。作品は、創造されたものであるというだけでなく、それ自体が創造行為一般のプロセスを開示するものでもあるということを、ドゥルーズの作品についての語りが示している。しかしそのなかで語られるヴィジョンは、作品を振り分け分類する作品自身の特徴というだけでなく、世界の属性そのものなのである。花のヴィジョンを画家が描くとき(あるいはドゥルーズがそれについて語るとき)、そのヴィジョンは存在のヴィジョンそのものなのだ。

ルドンは、リトグラフのひとつに、「花のなかで試みられた最初の視(ヴィジョン)がおそらくは存在した」という題をつけた。花が見るのだ。純然たる恐怖──[…]。

同296
Odilon Redon, Il y eut peut-etre une vision premiere essayee dans la fleur

ドゥルーズにおける二つの存在論

わたしはここで、ドゥルーズのなかで二つのヴィジョンが揺れ動き、ポエジーの動揺をきたしていることを指摘しておきたい。ドゥルーズの哲学システムの中心にある緊張は、このポエジーの相剋である。

一方でドゥルーズのなかには自然を何か恐るべきもの、圧倒するもの、破壊的なカオスに身を浸しているものとするような諸々のヴィジョンの系列がある。自然の生成は、何より耐えがたいものであり、限界の経験そのものである。「胚の偉業と運命は、生きられえないものそのものを生きることにあり、そして、あらゆる骨格を打ち砕きいくつもの紐帯を断ち切るような強制運動の豊かさを生きることにある」[『差異と反復(下)』128]。そしてこれは、思考の残酷な悪意でもある。ドゥルーズにとって、「思考するということ、それは創造するということなのであり、それ以外の創造は存在しない」[『差異と反復(上)』393]のだが、しかし思考することもできる動物としての人間は、世界の創造行為に参与しながら、その残酷な力能を経験することになるのだ。対照的に「動物というものは、或る意味で、おのれの表立った諸形式によって、そうした背景(フォン)から守られている」のだが。言葉とはうらはらに、人間のなかにのみ愚劣(bêtise)つまり耐えがたい獣のような愚かさが、陳腐さ、ステレオタイプの城壁が、常識という名の恥辱が存在するのである。しかしそれは、思考の常軌を逸した暴力、カオスの乱流を免れるために必要な措置、人間的なものの諸々の形式でもある。思考するということはしたがって、二重に耐えがたい経験である。人間であることの恥辱と思考するというパッション。要するに愚劣と残酷。命じるものと命じられるものとしての思考の構造。「先験的なものの風景は、活気にあふれている」[同402]とドゥルーズはいう。

すべての規定は、残酷で悪しきものへと生成し、もはや、それらを観照し考案する思考によっては、生皮を剝がされたもの、ものれの生ける形式から切り離されたもの、そうした陰気な背景のうえで浮遊しつつあるものというかたちでしか捉えられないのである。その受動的な背景(フォン)のうえで、一切は攻撃へと生成する。そこでは、愚劣と悪意とのサバトが執り行われる。

同405

これがドゥルーズにとっての思考のイメージ(あるいはイメージなき思考、思考のヴィジョン)である。伝統的な思考のイメージ、暗黙の前提は、このヴィジョンによって打ち砕かれる。思考は、安心した憩いではなく、確実性を保証されず、可知的なものの永遠性をめざすものでもない。そこには、純粋な、カオスの威力を被るという経験があるのであって、だからこそ、「花が見る」というヴィジョンは純然たる恐怖なのであり、その恐怖を哲学者は芸術家と共有しているのである。

他方、ドゥルーズにはこれと深刻に対立する自然のヴィジョンの系列があるようにおもわれる。しかもそれらは、『差異と反復』から『千のプラトー』をへて、『哲学とは何か』まで一貫してみられる。『差異と反復』でドゥルーズは、「受動的総合という至福が存在する」と述べている。「わたしたちは、自分自身とはまったく別のものを観照するにせよ、とにかく観照を遂行することで快感を覚え(自己満足)、そしてこの快感のゆえにこそわたしたちはみな、ナルシスなのである」[同209]。すなわち自然そのものの観照、受動的総合は、事物がたた存在するという無形の至福をもたらすのである。それは事物の至福であり、人間はそこに何も付け足さず、反対に事物の差異的要素を引き抜く(縮約する)のである。

小麦と呼ばれる土と湿り気の縮約(コントラクシオン)が存在するのであって、この縮約がひとつの観照なのであり、この観照が自己満足なのである。野の百合は、それがただ存在するというだけで、天、女神、たち、そして神々の、すなわちみずからが縮約しつつ観照する諸要素の栄光を歌いあげるのだ。

同210

受動的総合、あるいは縮約、あるいは観照。『千のプラトー』ではおなじことが「表現」という観念にかんしてもいわれるだろう。

表現すること、それはつねに神の栄光を歌いたたえることである。すべての地層が神の裁きであるからには、歌を歌い、自己を表現しているのは、何も植物や動物、蘭と雀蜂ばかりではない。岩山も河の流れさえも、およそこの地球の上にある地層化されたいっさいのものが歌っているのである。

『千のプラトー(上)』101

これら二系列の自然のヴィジョンはどのようにドゥルーズの哲学システムのなかに同居し、概念化され、あるいは解消不可能な緊張状態をかたちづくっているのだろうか?

自然の悪意を切りとる芸術

一見すると思考と感覚の差異、伝統的には一方に能動性、他方に受動性を割りあてるような諸能力のカント的ヒエラルキーが依然として問題であるようにおもわれるかもしれない。しかしドゥルーズは周知のようにこのヒエラルキーを掘り崩すことで伝統的認識論の批判としたのだった。彼にとって思考は絶対的受動性そのものと区別できないような「絶対的必然性」[『差異と反復(上)』371]の経験であり、パッションである。

彼にとって芸術とは自然の根底にあるカオスを、その創造の力能を抜きとり、感覚のブロックへと仕立てあげるような経験であった。すなわち「芸術は、カオスのかけらを捕まえてひとつのフレームに入れ、ひとつの合成されたカオスを形成する」[『哲学とは何か』346]。ひとつかみのカオスをフレーミングすること。いまだ妄想であるような存在のヴィジョンを感覚へともたらすこと。実際のところ、どのようなヴィジョンでもかまわないというわけではない。ヴィジョンには感覚という制約があるのだ。そうでなければ「わたしたちの「空想」(妄想(デリール)、狂気)が瞬時に宇宙を駆け抜けてそのなかにペガサスや火を吐く竜を産みだしてしまう」[318]ことに歯止めが効かなくなってしまうであろう。ドゥルーズにおいて妄想とは存在論であるが、そのなかにも一定の制約が存在するのであり、それはしかし「相関主義的」なものではなく、事物の一定の秩序を表現するものでなければならない。そうでなければヴィジョンのなかにはなんの客観性もないということになろう。「要するに、物と思考の出会いにおいて必然なのは、感覚がそれらの一致の担保あるいは証人として再生されるということである」[338]。

しかしドゥルーズは、感覚器官なき胚にのみ耐えることのできる運動が存在するといっていたのではないだろうか。その強制運動が思考を受動者の位置におくのであり、それこそが思考=創造の秘密であった。愚劣、悪意、狂気という美しいトリアーデ。人間的なものの諸形式を破壊すること。哲学と芸術に共通するのはそうした思考=ヴィジョンの運動である。しかし芸術家は、ヴィジョンを感覚へともたらすためにまずステレオタイプを破壊しなければならない。世界の創造は、いつでも任意のときにはじめるというわけにはいかないのである。

画家は未使用のカンバスのうえに描くのではないし、作家もまっさらな紙面に書くのではない。紙面あるいはカンバスは、あらかじめ存在しあらかじめ打ち立てられた紋切り型の表現によってしでにはなはだしく覆われてしまっているのであれば、まずはじめに消し、拭い、凸凹をならし、ずたずたに切りさえしなければならないのであって、こうすることで、カオスから流れ出てわたしたちに視(ヴィジョン)を運んで来る一陣の風を通すことができるのである。

同342

思考の共通の前提(共通感覚=常識)を破壊することが哲学の条件であるように、人間的な諸形式の破壊は芸術の条件である。なぜなら芸術作品は「人間の不在において存在する」[275 ]ものだからである。ドゥルーズにとって物自体の栄光は可知的なイデアのなかにではなく、あるいは道徳法則と人間の自由意志のなかにあるのでもなく、芸術作品の自律性のなかに存している。つまり、「花が見る」ということ。このヴィジョンは、物自体の戦慄すべき栄光を明かしているのである。

生気論の誘惑

しかし他方で、こうしたヴィジョンに尖く対立するのが物自体の充足というヴィジョンである。ドゥルーズは自然に受動的総合を、観照を、縮約を、一種の「純粋感覚」を帰するのだが、同時にその根底にはカオスの恐るべき乱流が吹き荒れているともされる。これら二つのヴィジョンは、概念的に解消されているとはいえない。むしろ『差異と反復』から『哲学とは何か』まで一貫して続いているのは、それら二つの音調、存在論的調性、不調和な和音のあいだの緊張が、きわめて豊かな概念の系列を誘導しているようにみえるということである。

観照すること、それは創造することであり、受動的創造の神秘であり、それが感覚なのである。感覚は、合成=創作平面を満たし、自分が観照するもので自分を満たしながら、自分自身で自分を満たすのである。要するに、感覚は、「享受(エンジョイメント)」であり、「自己‐享受」である。[…]植物は、即自的感覚である。あたかも花は、神経と脳をもつ作用者によって知覚される前に、あるいは感覚される前にさえ、最初の視(ヴィジョン)あるいは感覚の試みを感覚しながら、つまりその花を合成するものを感覚しながら、自分自身を感覚するかのように。

同356-357 

感覚=創造という規定。この自然のヴィジョンのなかには、まるで最初から人間は存在しないかのようであり、必要とされていないかのようである。したがって自然の悪意もなく、暴力も、カオスもないということになろう。なぜならそれを捉える世界の能力(思考)もまた存在しないからだ。それではあの戦慄は、自然の悪意は、要するに思考は、自然そのもののどこに位置づけられるのだろう?

ドゥルーズは「胚のみが耐えることのできるすべり、捩れが存在する」と述べていた。「成体がその運動をなし遂げてしまうなら、それはズタズタに引き裂かれるだろう」[『差異と反復(上)』318]。これを感覚が引き受け、みずからの限界強度、限界の経験、超越論的経験としなければならない。そしてそれは同時に思考が引き受けなければならない自然の悪意でもあるだろう。芸術家たちがもし自然そのもののカオス的断面をヴィジョンとして切りとることに成功しているなら、それが物自体のイメージであるとするならば、それ自体に安らう自然というイメージは、概念上の問題を提起することになろう。

概念上、ドゥルーズは生気論の誘惑に屈したようにおもわれる。つまりこうしたヴィジョンを自然に帰するのではなく、脳の前成説を自然に帰することによって。ドゥルーズによると、「思考するのはまさに脳であり、人間ではないのであって、人間とは脳におけるひとつの結晶にすぎないものである」[353]。それだけでなく、事物そのものが一種の「ミクロ脳」のようなものをそなえているのだとされる。作用することなく感覚する脳という仮説。それが諸々のヴィジョンの根拠なのだろうか? もし諸ヴィジョンがそれ自身に充足しなければならないのだとすれば、実際そうであろう。したがってもしわれわれがこの充足したヴィジョンの系列を真に受けるなら、人間が巨大な神経系であるというだけでなく、自然がまさしくひとつの巨大な神経系でなければならない。すべては神経系である。これが概念上の奇妙な帰結だ。ヘーゲルは、これと似ているが少し異なる自然のヴィジョンをもっていた。つまり自分自身の本質(脳と言いかえよう)を外部にもつ生命としての植物。これもまた、一種のヴィジョンではあろう。諸力と物質の外在性、ヴィジョンはそれらを表現するか、しないかのどちらかである。ドゥルーズにおいて、二つのポエジーと存在論がみられ、それらは揺れているようだ。

いいなと思ったら応援しよう!