人間の「景色」に触れていく事を続ける手法「ダンス劇の私論-わたくしろん-」
−はじめに−
僕が8年程言い続け、創り続けている「ダンス劇」について、けっしてわかりやすくはないが、自分が感じる魅力と必然性について書いてみます。
何処かから学んだことを伝えると「情報」として認知されるが、僕のダンス劇は学んだわけではなく、家が楽しかった幼少期からダンスを習い始めた青年期、その経験を生かして生きて行こうとしている今現在。と全て僕がこれまでに出会った事柄や、出来事や、人間達によって形成された「私論-わたくしろん-」であるからして情報としては認知されずらいだろう。
−ダンスと劇−
ダンス劇と聞くと言葉を使う「劇」と身体を使う踊り「ダンス」の両方が混在する表現を想像するか、「ダンス」を使って物語「劇」を進行するも表現だと認識するだろう。しかし僕はこのどちらでもないものをダンス劇と呼び創作しています。
どちらかと言えば表面的には「劇」と「ダンス」が混在しているものが、僕が創っているダンス劇であるが、これはあくまでも事柄として見えてくるものが「言葉」と「踊り」だということで。
実は僕の中ではダンス=身体がある現象で、劇=常に繰り広げられている景色であって、身体が存在している場所で常に繰り広げられている景色=ダンス劇=日常なんです。
つまり日常を舞台の上にあげる、もしくは見世物として人目にさらす行為が僕の創作なんです。
皆さんが思う踊りやダンスをしなくとも人間の身体からは多くの情報があふれ出ていて、それによって多くの事を感じて判断して記憶に留める事を私たちは自然に行っています。
例えば。
あの人が「大丈夫。怒っていませんよ。」といった時の目の震えや、僕と向き合わないよう、まるで僕のうしろの空気と対峙するかのように焦点の合わない身体で言ったその景色から、僕は彼に取返しの付かない事をしてしまった事を知り、それと同時に自分の目の前にいる彼がこちらに怒りを向けている事実を受け入れられない自分の足は少し震え、自分を守る為に沸き上がった自分勝手な怒りが目を涙で潤ませていて、この2人の事情を知ってか知らずか、隣のテーブルで2人の会話を楽しんでいたカップルが声のボリュームを少し落として、先ほどまでの笑顔を形状記憶したまま、窓の外を眺め始めた事は、僕には2人の後頭部から容易に判断が出来て、2人が眺めている窓の外がとても穏やかな日曜日の光を放っていて、その景色が僕の現状とは大きくかけ離れている事で、僕は世間からそっと蹴り落されたような気分になったとする。
僕は景色や彼の身体や、隣の2人身体から多くの情報を一度に投げつけられ、思い出したくなくともそのカフェの前を通ると思いだされる苦い思い出が焼き付くだろう。
これはかなり嫌な記憶ではあるが(もちろん実際ではない)、そんな手法で私達は忘れられない一日や、瞬間を身体の中で揺らしながら生きている。
そんな記憶の一部になりうる瞬間や、記憶の景色がまるで目の前に再現されたかのような場面を創りたくて、僕はダンス劇を続けているのでしょう。
−様々な事が起こるの常−
ここでは「踊り」と「言葉」の使い方や、役割について書いてみます。
言葉を動きでなぞるのではなく、あくまで言葉と踊りは密接に関わりながらも自立しています。
今日はとてもいい天気だ。と言いながら空を見上げて両手を揺らして微笑む踊りをするのは、あまりにも言葉と身体に敬意がないように僕は思う。
何故ならどちらかがいらなくても成立するからだ。
言葉の音色で十分気持ちよさは伝わるだろうし、言葉にしなくとも喜びに満ちた身体があればそれでいい。
言葉は言葉に任せて、身体は場所や時間や、匂い。他者がいるならば他者との関係を伝える事が出来し、その逆もしかりである。
分かりやすさを求めて何かを表現するのであれば、全てで一つの事を現すべきだが、そもそもわからない事が多い事がこの世の魅力の一つだと感じている僕は、このわからない瞬間を描きたい。
1つの事しか起こらない時間はないだろうと思う。
大晦日、家族みんなで年を越すために朝からみんなで集まりました。
という行事のほんの一時間たらずの中に、こんなにも多くの事が起こり、表面化しないそれぞれの想いや煩わしさが入り乱れる。それを僕は誰にも頼まれていないのにビデオを回し映像に残した。
このビデオテープはもうどこに行ったか分からないし、何十年も見ていない。この登場人物の中にはすでに向こうへ行ってしまった人もいるが、僕には鮮明に匂いや、声や、感情や、温度があの日の景色としてしっかりと残っている。
―必然を共有する―
日常に転がっている身体や景色にダンス劇がかなう事は容易ではないが、身体の距離や緊張や言葉の響きやテンポを使い、そして何も起こらない時間を創ることで、僕が見た景色や温度や匂いを再現しようと試みる事の面白みは、そんな幼少期を過ごした僕には必然的な創作活動であり、この景色に身体の中の記憶の何処かが反応する観客がいるのではないかといつも思う。
音楽も絵も自分の知らない人が創った作品に心の何処が反応して何度も聴いたり、いつまでも立ち止まって魅入ってしまうのは、思考ではなく身体が反応した自分の興味であり、
僕は「自分の興味」に素直に作品を創り続けるでしょう。
そして誰かが好きだからではなく自分の何が反応して僕の「ダンス劇」を観に来て下さる方々がいる事にいつも勇気を頂いています。
またいつかのダンス劇でお会いしましょう。
ダンス劇作家
熊谷拓明