ソーシャルディスタンスな今思う、「触れる」に変わること
故意に「触れる」
そこには何かしらの想いがある。
愛情、同調、憎しみ、怒り
そして、願いや祈り…。
「触れる」ことで、想いを伝えてきた。
握手やハグ、
痛みをやわらげるために、さする。
ビンタだってそう。
もちろん、キスやセックスだって。
でも、今は
ソーシャルディスタンス。
「触れる」ことに躊躇せざるえない状況で
「触れる」に変わることは何だろう…。
それは、「言葉」だと思う。
今までも当たり前のように他人とのコミュニケーションの手段として使われてきたものだが、今まで以上に大切になってきてると感じている。
言葉は見えない。
ウイルスだって、言葉だって肉眼で見えないのは一緒だ。
今、みんなで肉眼では見えないもを恐れ、その影響もあり、見えない様々な不安と戦っている。
ウィルスは見えなけど、みんな信じている。
同じように見えない言葉は信じることが当たり前になりすぎて、信じることさえ、忘れている。
言葉をもう少し信じてもいいと思う。
「言葉を信じる」
私の言う「言葉を信じる」というのは、
「言葉にのせた思いが伝わる」ということ。
ちょっと、ややこしいかも(笑)
簡単に言うと、言葉がコミュニケーションの道具として当たり前になり、そこへの思いが伝わっているという意識が軽くなっているのではないか?ということです。
それは、勇気付ける優しい言葉だけでなく、相手にナイフを押し当てるような、つめたい言葉も発した中に含まれる思いが成分のように受け取った側に入っていくんだと思う。
ソーシャルディスタンスで、触れることなく、オンライン、SNS、ネットの書き込みなど、誰でも安易に自分の思いを発信出来るようになった時代。
どんな言葉を使うか?
言葉選びも大切だけど、言葉には思いがのることを信じて、発信していきたい。
多くの人に届けかなくてもいい。
そこにいる1人に届けば最高だ。
そんな思いで言葉を置いていこう。