それぞれの
いよいよ、僕らodolのワンマンライブ”individuals”が明後日に迫りました。
大阪公演は残念ながら中止となってしまいましたが、東京公演はなんとか無事に開催できそう。
去年も東京と大阪の二箇所で、同じ名前の公演を行った僕たちですが、今日は改めて、この”individuals”という場で表現しようとしていることについて書こうかなと思います。
“individuals”という言葉には、「それぞれの」や「個々の」という意味があります。僕らがバンドを始めてから出演してきたフェスやイベントのうち、多くの会場では、みんなで同じ動きをしたり、コール&レスポンスがあったりと、会場にいるたくさんの人たちが「ひとつ」になることを目指していたように思います。
僕らの世代は、物心ついた時からすでにiPodやMP3プレーヤーが手元にありました。僕の場合、音楽は一人で、好きな時に好きな場所で聴くことがほとんどでした。そして、ライブに関してもそれは同じでした。周りが盛り上がっている中で、僕は後ろの方ですこし冷静に浸っているタイプ。そして、僕の知る限りでは、odolをやる前から作詞作曲のコンビを組んでいた森山もそうでした。
だからか僕はライブ中、演者が手拍子を求めたり、踊ることを促したりすることに少しだけ違和感を感じていたんです。もっと、人それぞれのライブの楽しみ方があっても良いのではないか、と。
そんな僕らが大人になって、odolを結成しました。2014年から活動を始めて、たくさんライブをしてきたし、たくさん曲を作ってきました。そして去年、ようやく言葉にできたことがあります。
僕たちは、聴いた人が「ひとつ」になっている姿をイメージして音楽を作ってきたのではなく、
僕たちの音楽を聴いてくれる人「それぞれ」の生活や時間に寄り添うことをイメージして音楽を作ってきたのだ、ということです。
(去年。photo by rei otabe)
もちろん、多くの人が「ひとつ」になることは素晴らしいことです。けれど、「それぞれ」の時間があることも素晴らしいことだと思うのです。
今年起きたパンデミックや、それによる日常生活の変化もまた、音楽を通して、聴いてくれる人ひとりひとりに寄り添いたいという気持ちをより強く意識するきっかけになりました。
”individuals”で表現しようとしていることは、そんな僕らの素直な気持ちです。この気持ちはこのライブをやる前からずっと、言うなれば最初の一曲である「飾りすぎていた」を作るより前からあった気持ちのような気がします。
odolの楽曲を好きでいてくれる皆さんの心に馴染む空間と時間にできればいいなと思っています。
お楽しみに。