人生の半分、同じステージに立ってきた彼のこと
緊急事態宣言、再びですね。
東京だけでなく、全国的にかなり感染が拡がっています。
不安ですが、みなさんどうか体に気をつけて。
昨年の7月に僕らのバンド、odolのギター井上について書いてから、ベースのソフィアン、ドラムの垣守、とバンドメンバーひとりひとりについて、すこし照れながら、懐かしみながら、書いてきました。
そして、今回は最後の一人。
僕たちodolのコンポーザーであり、リーダーであり、そして僕にとっては中学からの友人でもある森山。彼とはもう出会って15年目になります。
年月を意識したことなんてなかったけど、改めて数えてみて自分でも驚いています。
15年って……(笑)。26歳の僕にとって、人生の半分以上です。
お父さんとか、お母さんとか、はたまた兄弟だとかに、面と向かって感謝を伝えるのはすこし照れくさいですよね。今日はそんな気持ちで、僕にとって特別な存在である森山について書きたいと思います。
(初めて渋谷のライブハウスWWWに出たとき。もう6年も前?)
出会い
彼と初めて出会ったのは、中学2年生の頃でした。
出席番号も”ミ”と”モ”で前後。成績や身長もちょうど同じくらい。
そんなわけで何かと一緒にいることの多かった僕たちは、気がつくと友達になっていました。
3年生になり、高校生になったらバンドをやるんだ、と決めていた僕は、ピアノが弾けた森山を、なぜかベーシストとしてバンドに誘いました。
たしか、給食当番でクラス分のパンを教室に持っていく途中に、「高校生になったらバンドをやろうよ」と誘ったような。
まさか、こんなに長い間一緒に音楽をやることになるとは思ってもみなかったな。
高校生になった僕ら
高校生になり、僕らは別々の学校へ進みました。
けれど、同じバンドで練習したり曲を作ったりしていたから、週に1度は会っていたような気がします。森山と一緒にいることも、一緒に音を鳴らすことも、とにかく全てが楽しかった。
ひとつ、鮮明に覚えていることがあります。
それは高校1年生の頃のこと。
初めてライブに出演することになった僕らのバンドは、放課後と休日をまるごと使って、僕の家で練習するのが日課になっていました。
そんなある日の練習の合間、僕の家にあった電子ピアノで森山が曲のようなものを弾きだしたのです。
「今の、何?」と尋ねる僕に、「いや、テキトー。」と返す森山。
彼は飄々としていましたが、音楽を始めたばかりの僕にとって、それはまるで魔法のようでした。
そして、そのとき森山が弾いたフレーズをもとに、僕たちのバンドは初めてオリジナルの曲を作りました。この頃から僕は「森山と一緒に音楽を続けられたら凄いことになりそうだ」と感じていたのでした。
(唯一手元にあった高校時代の写真。ベースを録音する森山。たぶん制服?)
3年生になるまでベースを弾いていた森山は、演奏が上手いだけでなく作曲もできたので、他のバンドからも引っ張りだこでした。
僕は、あいつは「すげーヤツ」なんだなと思いつつも、森山が他の人たちから求められるたびに、自分も負けじとたくさん歌を練習しました。
(余談ですが、僕には弟が居て、なぜか僕ではなく森山に憧れを抱いた弟は、この時期にベースを始めました。)
odol結成から今まで
そんな高校生活の中で、僕と森山の2人は以前ミゾベのnote#9にも書いた、音楽人生を変えるほどの出会いを経験し、大学進学で上京してからも一緒に音楽をやろうと約束しました。
僕は森山より1年先に上京し、その間に出会った仲間とともに結成したのが今のodolです。結成した最初の頃はうまくいかないことばかりで、ちゃんと活動を始めるまでに約1年もかかってしまいました。
(初めての自主制作CD。3曲入り。当時無料で配っていました。)
結成したばかりの頃、一番ピンチだったのは最初のレコーディングでした。
2日間かけて3曲分のギター、ベース、ドラムを録音するという予定が、担当してくれていたエンジニアの方の急な都合で2日目は来られないことになってしまったのです。
急遽代役を立ててくれましたが、その代役の方も、最後の井上のギターを録り終わる前に「終電だから」と帰ってしまう絶望的な状況……。
取り残された僕たちは途方に暮れていましたが、そこで立ち上がったのが森山でした。
手探りの状態ながら、ギターのアンプにマイクを立て、初めて触るソフトでなんとかレコーディングを終わらせたのです。
エンジニアの方が帰ってしまった時の絶望は今でも忘れられませんが、それ以上に、自分達だけで録音したギターの轟音にとても興奮したのを覚えています。
(当時僕らの前に現れたヒーロー、森山)
(今では録音もお手の物。)
ちなみに、そのとき録音したのは僕らが初めて作った曲「飾りすぎていた」です。僕の記憶が正しければ、1st Albumに収録されている音源も、そのときのものが使われているはず。
そして、時は流れて、今。
odolがデビューしてから、僕と森山の関係はただの友達というよりも仕事仲間や相棒といった関係に変化してきたのかもしれません。2人だけで居るとあまり話さないし、最後に遊びに行ったのなんて、たぶんもう数年前のことです。
けれどそのぶん今の僕らには、自分たちだけにわかる共通の言語がいくつもあります。
そして、もはや言葉にしなくてもわかる、なんてことも増えました。それは作品作りにおいても同じです。
例えば、歌詞の内容に一番細かいところまで突っ込んで「説明してくれ」と言ってくるのは彼だけだし、逆に説明を求められない部分は、きっと言葉にならないニュアンスまでわかってくれているんだろうなと思っています。
これだけ自分の言葉を理解してくれる人が身近にいるということ、音楽を作り始めてから今に至るまで、共に過ごしてくれている人がいるということは、とても幸せなことです。
そしてこれは、作詞と作曲をどちらか一人でやっていたら味わうことのできない感覚だったのかもしれません。
出会ってから15年、一緒にバンドを始めて13年が経ちました。
バンドを始めたあの頃とは、自分たちを取り巻く環境も、先ほど書いたように僕らふたりの関係も、良くも悪くも全てが変わりました。
でもひとつだけ、今も全く変わらないことがあります。それは彼は僕にとって今でも「すげーヤツ」だということです。
彼が見せてくれる景色、聴かせてくれる音があったからこそ、今の僕があるし、今まで歌えてきたのだとさえ思います。
僕も彼にとって、そんな自分であれるように。
あの頃と同じように、僕も日々自分を磨くのです。
(デビュー当時の僕ら。1st Album『odol』リリース時のインタビューより。photo by 外林健太)