odolができるまでの話
こんにちは、ミゾベです。
『WEFT』のリリースに伴ってのラジオやインタビュー、チェックしていただけているでしょうか。僕とピアノの森山は中学の同級生で、知り合って10年以上になるので、取材などの場では一緒に音楽を始めた高校生時代のことをよく話します。けれど、思い返せば他のメンバーとの出会いについて話したことはあまりありません。
そこで、今回から不定期で、odolメンバーとの出会いについてここでお話してみようかなと思います。おそらく、他の場所でメンバーひとりひとりとの出会いについて話すことは少ないだろうから、これを機にバンドのバックグラウンドやストーリーに共感してもらえたら嬉しいな。
初回は僕にとって大学時代の同級生でもある、ギターのイノさんこと井上拓哉についてお話します。
イノさんとの出会い
僕の通っていた大学には、当時3つの軽音サークルがありました。
サークルに入らずとも音楽をやるつもりでいた僕でしたが、東京で一緒にバンドをやるつもりだった森山は福岡で浪人中だったので、とりあえず大学のサークルを覗いてみることにしました。
まず最初に行ったサークルの説明会の帰りに、金髪にツイストパーマをかけた男に話しかけられました。僕は内心(コイツめっちゃいかついな……)と思ったのですが、彼は意外と物腰柔らかな男で、すぐに打ち解けることができました。
(大学1年のときのイノ)
彼の名前は「イノウエ タクヤ」というらしく、どうやら付属高校からの内部進学組で、その仲間でハードコアバンドをやっているようでした。
その後、僕らは意気投合し、一緒に授業を受けたり、お昼を食べたりするようになりました。そうして学内でつるむうち、いつしか学外でもよく遊ぶようになったのです。当時僕が住んでいた高円寺の家から彼の家までは往復4時間ほどかかる距離でしたが、それでもなぜか週に1回ほどのペースで遊んでいたように思います。イノさんが当時やっていたバンドのライブを見に行ったり、互いに好きな音楽や好きなモノを教えあったりして、大学2年の春に森山が上京してくる頃には、僕にとってイノさんは東京でできた一番の友達になっていました。
odol結成
森山が上京してきてから、僕らがodolとして活動し始めるまで、約1年がかかりました。僕の中で森山とイノさんと一緒にバンドがやりたい、という気持ちはあったけれど、当時僕は別のバンドをやっていたし、森山も藝大や東京での生活に慣れるのは大変そうだったので、動き出すのに時間がかかってしまったのです。写真は僕らにとって初めてのアーティスト写真。デビューの1年以上前?
そんな僕らが本格的に動き出すきっかけになったのは、イノさんが送ってきたデモ音源でした。30秒くらいのデモに衝撃を受けたのを今でも覚えています。もちろん、今聴くと拙いものです。けれどその音源を聴いた僕は、「森山とイノさんと一緒にやればすごい曲をつくれる」と直感して、僕はすぐに他でやっていたバンドを辞めることにしたのです。そして、そのデモをもとに僕らは「飾りすぎていた」という曲を作りました。おそらくまだ、odolという名前もない頃。
僕らはその夏、初めてのレコーディングをしました。そのときにはソフィアン、垣守も新たにメンバーに加わっていて、全員が自分たちの曲に手応えを感じていたように思います。レコーディングした音源の完成には時間がかかってしまい、odolとして活動できるようになったのは、2014年の2月のこと。「飾りすぎていた」「欲しい」「君は、笑う」の3曲が入った1st demo EP、「躍る」をリリース。この作品はライブ会場、インターネット上で無料で配布しました。僕20歳の誕生日を迎える年の冬のことです。
(1st demo EP『躍る』2014.2.10 release)
井上拓哉という男はodol始動のきっかけであり、強めな見た目とは対照的に、柔らかくチャーミングな人間なのだということを知っていただけたら嬉しいです。
そして実は、イノさんがやっていたハードコアバンドのベースがソフィアンだったり、僕がodolを始める前に辞めた「別のバンド」で出会ったのがドラムのマシだったりします。二人との出会いは、また今度お話ししますね。
(これはヘルシンキと中国行ったとき)
おまけ
ブルックスブラザーズが経営破綻とのこと。。。
ボタンダウンのシャツを考案した、アメリカの代表的なブランド。
僕もシャツを持っていますが、こういうトラディショナルなブランドが苦戦するのは悔しいですね。これなんてとてもいいシャツだと思う。
ヘッダー撮影:野本敬大