「対話」にまつわるエトセトラ
対話という言葉が、昨今教育業界を席巻している。
2年前の要領改定でこのワードが出たこと、あとはレッジョの実践からの影響も大きいのだろう。と個人的には思う。2019年前後くらいから、対話という言葉の使用頻度が急増したような記憶がある。
その使用例としては
”保育現場では、職員同士の対話が必要”
とか
”実践者同士で対話しましょう”
とか
”うちの園には対話が欠けている”
とかそういった感じ。
どの例が最も「対話」という本質的意味に類似しているかというのは、使用者がどのようにその用語を理解し、意図しているかによって異なる。
ただ、最も使用例が多そうな例2は、ただのコミュニケーションを「対話」という言葉に置き換えて使っているだけが、肌感覚的には多いように感じる。
対話とは、これも定義が色々ではあるものの、ざっくりいうと、違いを明示するコミュニケーション。つまり、言葉の応酬により、双方の違い、あるいは類似点を浮かび上がらせること、である。
そいで、その違いから、主体者である当人が、学んでいく、場合によっては認識し直していくプロセスであると言える。さらには、対話という相互交流のプロセスの中から、主体者である「わたし」が揺れ動かされ、時には痛みを伴いながら、学び直していく過程も内包している。
考え方が明らかに異なる人と、腹を割って、面と向かってコミュニケーションをとるっていうことです。
そういう意味で考えると、社外、園外での学びの場においては、参加者の率直な意見が出るようなモデレート、参加者の心理的安全性の担保、また参加者同士の関係性、などが求められる。
一方で、そのような意見が言えるような場を用意していたとしても、異なる意見というのはなかなか挙がるものではなく、かつ”お前に言われてくね”という防衛的反応もあるだろうし、表明する側もその関係性によっては、分厚いオブラートに包むか、思わなかったことにするだろう、とも思うのである。
社内、園内で考えていくと、対話が必要というより前に、職員同士のコミュニケーションは必須であるのは間違いない。
ただ、気をつけないといけないことは、職場には、明確な上下関係(役職、経験、年齢)が存在しており、我が園は対話が活発である、と管理職は認識する一方で、そこで働く若手は、自分の意見を言えないという状況もある。
また、例えば子どもの話や、楽しかったエピソードはよくするものの、自分の考えとは異なる保育について、あるいは喧嘩をふっかけてしまうような話については、なかなか言えないということもある。
これこそが、本来的には対話の本質に近いものであるが、率直に表現するならば、互いにとってどうでもいい(争いが起きない)ことはなんでも、いつでも話せるが、互いにとってリスクが起きそうな話題(給与、保育文化、働き方・・・などなど)については触れることができない、ということも総じてあるだろう。
対話とは、自分が揺れ動くことを指すことを考えると、そう簡単に起きるものでもないし、そういつも「対話」をしたくないだろう、というのが人間の性でもある。だって、結構大変だもの。
しかしながら、対話ができている、できていないという評価を、管理者はするのであるが(というか、しなければいけないのだが)、対話という性質上、自身の揺れ動きがあったのかということは、その人にしかわからないことでもある。つまり、その人、職員一人一人と日常的にどのくらい、またはどのように管理者自身が「対話」をしているのか問われる。
つまり、うちの園は対話ができていないという評価は、管理者自身であるお前が、全く職員の話を聞いていないという烙印を自身で押していることになり、対話が生まれるような環境や準備を、怠っていることを意味しているからである。
対話は自然には生まれない
生まれないからこそ、仕掛けが必要である
その仕掛けをせず、うちの園は〜・・・云々カンヌンと原因を職員に帰属させて言い換えてしまうと、思わぬしっぺ返が来ることになる。
自戒を込めて