延々続く「無限クラス一斉ループ」は気持ち悪い件

これからどんな子どもたちに育って欲しいのか。そんなことをよく汐見先生から投げ掛けられる。

AIが台頭して、ネットでポチすれば買い物ができ、人と関わらなくてもいい状況がますます加速してくる。だからこそ、人と関わることが面白い、っていう体験を幼児期にさせたいよね、と。

年長に差し掛かる、あるいは年長になると友だちとの関わりが深くなり、「一緒」とか「共有」とか、または「協同」ということが大事になる。

いや、もっといえば、保育者側が意図的に仕向けなくても、そうなっていく。


保育者の中で、仲間と協力することや、友だちと一緒にいることの面白さを否定する人はいないだろう。


でも、やっぱり僕はそこに疑念の目を向けたい。個か集団か、と言う二者択一的な見方ではなく、やっぱり日本の(うちだけ?)集団観点はどこかおかしいんだ。

こと、保育に関する集団という観点は、どこかおかしい。

いや、もっといえば気持ち悪い。


年長になると、判で押したようにクラスの皆で何かしようという事になる。

いや悪いことでない。保育者が何か活動を設定すること自体は悪いことではない。

そして、クラスの皆で何かをすることが悪いわけではない。


でも、クラス皆で何かをすると言うことがあまりにも多いのではないか。

ずっとこれ。そりゃしつこい。

金太郎飴のように、切っても切っても同じ面が出てくる。永遠に変わらない。

あまりにも、クラス全員でやりましょう的なことが多すぎる。

個と集団なんて、もうずっとそれこそ何十年も話題になり続け、その難しさや理論的な解明もされてきている。大事だ、と言うことは自明ではあるものの、ほんと判で押したように、一人かクラスか!の白黒実践になってる。蓋を開けてみると。

いやいや、集団と言うのは何もクラス一斉だけを指すのではない、って言われているのにもかかわらず、一人か全員か?になる。

そもそもさ、何かをやろうとした時に、いちいち全員の了解を取らなくてはいけない組織って、ものすごく面倒くさくないか?何か面白いことを考えても、30人のコンセンサスをとる。

で、全員の意見なんて一致することんて稀だろう。

それが、毎学期、下手したら毎月あると、もう嫌になる。と思う。俺は。

そして、その毎月延々と続く、クラス一斉ループ。

保育者はその中でしか子どもを評価しない。




そして、これがもっとも悪い。友だちやクラスの仲間と一緒にいることに正当性を見出すことで、その子の行為や一緒にいることの意味を見落としてしまうと言うこと。

2019年の夏にリレーが流行っていた時に何人かの子たちが参加しており、ミユもその中にいた一人だ。

毎日入っていたので、興味があり好きなのだろうと思っていたが、ひょんなとこから『私はリレーは好きじゃない』と。

え?と思って理由を聞いてみると、友だちが入ってるから仕方なく、と。

どひゃーとひっくり返った。

その場にいるからといって好きとは限らないし、年長ともなると『お付き合い』にも近い関わりも増えてくる。その事を身をもって知る事になる。



ちょっと話は変わるが、


今、新園長とともに保育室環境を見直しているのだが、その中に「ままごと」環境を見直そうとしている。

それは、茶碗やカップ、食べ物などのツールがデフォルトで用意されていることで、見立てやつもりになると言うよりは、道具に頼ってしまうのではないか、と。


まあ、それに関しては色々な意見があるから、まあいいのだが、その中で話題になった一つに、「することがないから、とりあえずままごとコーナーに向かう」という事があるのではないか。

ちょっと乱暴な言葉かもしれないが。

で、自分の記録をもう一度洗い直してみると、確かに、ちょっと何をしようか遊びを探索している子たちが、ままごとコーナーに入り、ご飯を作ったり、電話を手に持ったり、椅子を並べたり、ということを繰り返していた(全員ではない)。

もちろん、5月なので、進級による不安もあり、何をしようかな〜と探索している子たちの環境を保証するというのは当然だし、ままごと自体が好きなこともいる。

なので、あくまでコーナーとしてデフォルトで出すというよりは、必要に応じて出すという可変的な環境にする、という意味だ。年長でね。

ままごと有無論ではない。

でも、ままごとをしていると、どこか自分の好きな遊びをしている、と

思っていた節もある。僕は。


でも、もう少しその子の状況や背景や文脈を考えていくと・・・

おや??どうやら、もう少しやりたいことがあるのかもしれないのか

と、彼ら彼女たちの行為の裏側をもう少し深掘りする必要があるのではないかと思ったわけだ。

ままごと有無論ではなく、何かをしているように見えても、実は何かをしながら探索していたり、何かをしながらただ過ごしている可能性もある。もっと、行為の裏側を探っていく必要がある、そんなことを感じたわけだ。

いや、当然、何かをしながら探索していること、そのものを否定しているわけではなくね。

そういう時だってあるし。


で、ようは、集団っていうのもそれと同様で、仲間と一緒に過ごしていたりするだけで、「やっている感」が出る。

クラスで何かを話題にすれば、そりゃ年長にもなると、気が利く子が先生の意図を読んだ発言をしてくれる。


仲間といることで、保育者側がそれ以上の考察を放棄してしまう。

そのことが、とても怖いと思ったわけだ。


何度も言うが、行事自体を否定しているわけでもなく、クラス一斉の活動を肯定していないわけではない。


問題は、そのことの量があまりに多すぎ、クラス一斉や保育者主導の活動のみで、その子を理解してしまうこと、である。







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