保育の「正しさ」はどのように作っていくのか
時代が変わってきたということは、もう手垢がつくほど、昨今では使用されている言葉である。
誰でも使っている。しかしながら、どう変わってきたかということをその実情を踏まえて使用している人はわずかであろう。
AIやIOTの発達とか、何十年先には今の職業の半数(だっけ?)はない、とか、どっかで聞きかじった程度の話を、特に吟味もせず使用している例が散見される。
ほんと、分かってんの?っていうか、僕らの現実生活で、どの程度そういう実感あんの?っていうツッコミをいれたくなるほどである。
まあ、それはさておき。
保育の話である。
今と昔の、とりわけ保育の違いは、「文化の作り方」にあると感じている。
幼稚園というのは従来、世襲的な側面があり、園長という組織の長が全ての実権を握っており、保育文化つまり保育内容の1から10まで全て決めるという性格を帯びていた。
みんなで何かを作るということではなく、あくまで組織の長たる園長が全てを作るということである。そこに合わないものは、淘汰され、適応できるものだけが残っていく。
多様性に大らかな時代ではないため、淘汰されることはこの職での不適合を意味する。
また、それは時代背景も大きく関係し、自分で時代を創っていくという気概を持った云わばスーパースターがたくさんいた時代でもあり、良くも悪くも専制的に行われていた。僕も、それは経験している。
良い保育を追求しようとする時、または色々な意味で園に園児を呼びたい(経営的にね)と強く願う時、強固なリーダーシップは不可欠である。
一方で、そこで共に働く保育者は、思考停止状態になる。一人に依存することで、自分で考えることをしなくなる。これが、良し悪しの「悪し」の側面である、端的に言えば。
問題は、この「ひとりで決めてしまう」ということである。
このことが、今は、「課題」として挙がっている。
みんな違って みんないいのか?の著書山口さんは、著書の中で
正しさとは、個々人が勝手に決めていいものではなく、そこに関わる人が合意して初めて正しさになる、
と言っている。
著書の中では、常識や科学について論じているのであるが、これは保育についても大いに適用可能である。
『正しさ』を『保育』に置き換えてみよう
権力を持つものが一人で正しさという保育内容を決めてしまうというモデルではなく、そこで働く職員で話し合いながら合意を作っていくというモデルにシフトする必要がある、とも捉える事ができる。
もちろん、一人で決めるというリーダーシップモデルがその時代で間違いであったわけでもない。
し、場合によっては、必要な時もあるだろう。
しかし、今は、その決定に関わる人をできる限り増やしていくことが、良しとされる。なるべく多くの人や、地域や保護者など、多様な人の意見を取り入れながら、『正解』を作っていくことが求められている。
何故か。
決定に関わる人を増やすことで、決めること自体の厚みが増す、ということもある。
しかし最も大事なことは、決め方にある、と思うのである。
合意を形成していくという時に、みんなで話し合うという、とってもめんどくさいことを丁寧に積み重ねることで、異論からの刺激による自身の成長、そのプロセスを経ることで得られる所属意識と当事者意識が生まれる。
これが、大事なのだ。
ここが、今と昔で決定的に違うことだ。
そのプロセスは、何も古典的な話し合いというスタイルにかぎらない。
SNSを上手に使うこともあるかもしれない。zoomを多用するかもしれない。
どんな方法でもよい。どんなやり方でも、そこにいる人たちで合意を形成し、当事者意識を高めていくこと。
保育における正しさとは、そこに関わる人たちで、喧々諤々しながら、合意をつくって生まれる。
だから、「正しさ」は園によって異なる、ということがでてくるだろう。
そして、そこに当事者である「こども」をどのように参画させていくのか、これも大きな一面でもある。