答えを求めず、最適解を探る〜対話とは
2020-02-06 22:20:14
昨年の10月に、園庭に大量の土が搬入された。
大型トラックが実に20〜30台分でである。
園庭は、一気に巨大な山脈にようになった。
これは、園庭環境を新しく作る一環で、築山を作るための土である。
築山を作るまでは、山脈のように積まれた大量の土で子どもたちは
遊び始める。
泥だけになり、頭からかぶって遊び始める強者もいた。
そんな遊び方は、以前は全く見られなかったし、あったとしても事前に
止められていただろう。
つまり、ダイナミックに遊ぶ文化がなかった。
どちらかというと、丁寧に、じっくり、綺麗に、汚さずに遊ぶというのを
奨励していたのかもしれない。
良い悪いではなく、そういう文化であった。
それが、この大量の土の登場で一気に崩れ去っていく。
園文化の見直しの時期ということもあって、子どものやっていることを
なるべく保障しようという「なんとなく」の暗黙の了解も手伝って、
このダイナミックに泥まみれに遊ぶという姿が、一応は保障された。
かくいう、私自身は、そういう遊び方はどちらかと言うと好きではあるし
大いにやってほしいと思う。
そんなことが10月にあったわけであるが、とある園内での研究会での
打ち合わせで数人と話していたときに、10月の園庭の話になった。
自分のクラスの子が園庭で泥まみれになっている姿を見て、心から共感
できない自分がいた、と。
またある保育者は、頭から泥を被っている隣のクラスの子どもを見て
疑問に思ったそうだ。
一方で、ベビーバスの中に入って泥を落としつつ、お風呂のように入っている
子がいたので、面白かったからその体験は保障できるように努めたという
保育者もいた。
同じ(厳密には同じ姿ではないが)姿を見て、面白いと思う人と、
周りの目を気にする人と、だめだと思う人がいる。
最近は、そんな解釈の違い。面白がりのズレも、なんだか面白いかなと
思えるようになってきている。
以前は、ダメとか疑問に思うこと発言に対して、食ってかかっている自分もいた。
たぶん、自分の中の「正解」とは違うから、違う答えを出す保育者に対して
諭したかったのだと思う。
正解を探そうとするから、意見が出づらくなるのかもしれない。
そう思うように、少しずつなってきた。
泥だらけになって遊ぶ子どもを見て
面白がれるひとがいる
人の目を気にするひとがいる
やめさせたいひとがいる
いろんな見方がいていいのかもしれない。
そして、何が正しいのかは答えがない。
少し互いにあゆみよりながら、こういう場合はどうかな?
どんな経験している?なんでそう思った?
ちがう意見、異なる価値観自体を理解しながら対話していくことが
重要なのだと思う。
そのための役割として、そういう異論を出していいんだよ、という
雰囲気を作ることがミドル以降の役割として大事な事になってくる。
正解を求めないって、思っているより難しい。
というか苦しいのかもしれない。
じゃあ、結局、泥あそびどうすんの?
ずっとこたえがないままでいいの?
いや、「とりあえず」来年はこれでいってみる?というような。
「とりあえず」ってかなり大事な心持ちであるように最近思う。
暫定 というような。
いったん、ここまで手を打って、様子を見ていきましょう、というような。
昨今では、「解」あるいは、「最適解」とも言われる。
僕なりに解釈すると、「解」とは暫定的な答えであり、今年に限りこの方法でトライし様子をみながら適宜変更していく。で、来年はその結果を受けて、また
改めて考えていきましょうよ、という行動姿勢。
イタリアのローリス・マラグッティは、保育はラボのようなものだ、と言った。
それは、常に仮説検証する必要があり、毎年刷新していかなければならない
のである。
そういう意味では、カリキュラムも保育内容も、すべては暫定に過ぎす
絶えず見直していく必要がある。
その際、異なる意見というのは、大いに考えるきっかけになるだろう。
さて、来週は、そんな異論が出そろったテーマでの園内研究会。
どんな化学変化が起こるだろうか。
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