あるがままを認める覚悟と迷いー保育者の地平より
迷っている時は、何かにすがりたくなる。あまり、占いは信じていないのだが、背中を押して欲しい時には、そういったものにも寄りたくなることがある。
悩んでいる時が、1番苦しいように思う。
だから、安易に解決したり、誰かに決めてもらいたくなるのだが、そこのプロセスを端折ってしまうと、あまりよろしくないこともある。
2007年に、当時勤しんでいたカポエイラを辞めるか続けるか、どうしようかと悩んでいた時があった。2001年から続けていた競技だが、チームのメンバーも様変わりしたことや、転職したことで、区切りをつけてもいいかと思っていた時期である。
しかし、悩んだ末に続けることを決めた。すると、新しいメンバーにも自分からコミュニケーションをとったり、後輩であるメンバーに教えを乞うということも、進んでした。
悩みが晴れ、もう一度やろうと思った時には、様々なしがらみを打ち消すエネルギーが自然と沸き起こってくる、ということを経験した。
津守真は、一人一人のあるがままを認めることの大事さを述べている。しかし、そこには苦難もあって、保育者としての自分の基準もあったり、そのままその子を認めることで、例えば歩く、食べる、身支度をする習慣というものを放棄してしまうのではないか、という恐怖もある。
これは、保育者や親であるならば、誰しも経験することだろう。
しかし、ひとたび覚悟が決まると、何もかもが変化する、と。大人の覚悟、というのは目に見えない内発的なものではあるが、その内的な変化は、子どもに伝わっている、と。
この一節に触れると、ある子のことを思い出す。なかなか集まりにこないA。最初は、なんとか部屋に戻ってくるものの、6月になると、ほとんど来られなくなる。
保育者である僕は、その気持ちを受け止めつつも、どこかで、ありのままのAを受け入れられない気持ちと葛藤する。
このまま受け入れていくことで、苦手なことをずっと拒否する子になってしまうのではないか。
大人は色々なことを先回りして、心配する。
本当はできるのではないか。単なるわがままなのではないか。
子どもの行動を表現としてみるならば、おそらく、いやそこにはメッセージが隠されているのだろう。
そこに、向き合うか、どうするか、ということ。それを突きつけられているのだろう。
覚悟する、と言うことはない大抵のことではできない。
でも、津守真の一節にふれ、問われているのは、保育者側の姿勢だということを、改めて思わされる。