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「ともだち」ってなんだ?

 以前、「私には友達がいない」という記事を書きました。
 それ以降も色々と考えたわけですが、やはり今の学校や社会において、「友達」という言葉は、とても曖昧なもののように感じています。

 ウチの長女は毎年、年度初めにクラス替えがあると「なかなか友達ができないんだよねー。」と家でボヤきます。
 でも、学校での様子をよくよく聞いてみると、休憩時間に一緒に遊ぶ友達はいるし、班や係の活動も協力してやっていると言うので、

「友達いるじゃん!一体君が言う『友達』って何?」

と聞いても、「・・・」です。

 逆に次女は今年小学校に入学したのですが、入学して数週間すると

「クラスの全員と友達になったよ!」

と、嬉しそうに帰ってきました。こちらもよくよく話を聞いてみると、名前を知らない子もいれば一言だけしか話したことがない子もいる・・・

「それって友達っていうの?」

と聞くと、

「だって『友達になろう!』って言ったら『いいよ!』って言ってくれたし!」

・・・とまあ、同じ「友達」という言葉ひとつをとっても、人によって認識の差があるんだなあと改めて思います。
 それがましてや30人の子どもがいる学級の中ではきっと認識はバラバラ。

 ということは、学校において「友達」という言葉を多用するのは危なくないか?と思うわけです。なので、私は「友達」という言葉を、意識して使わないようにしています。
 また、以前も書きましたが、高学年くらいの子に対しては、

「みんなが仲良くなれとは言いません。気の合う人もいれば会わない人もいるからね。でも、お互いに傷つけ合わずに過ごすための関わり方は学んでいこうね。」

という話をします。人と関わるときの距離は適切に取れるようになってほしいですからね。

 そして最近読んだ本が「おー、これこれ。自分の中の違和感、これよ。」という内容でした。それは、菅野仁さんの「友だち幻想」という本です。この中には、こんなことが書かれてあります。

 同じ地域から学校に通って来ているといっても、先生方は今でもついつい「クラスは運命共同体だ」というような発想になりがちなのだけれども、子どもたちは単なる偶然的な関係の集まりだとしか感じていない場合が多いのです。
 こうした状況の中で、クラスで本当に「こいつは信頼できるな」とか、「この子といると楽しいな」という、気の合う仲間とか親友というものと出会えることがあれば、それはじつは、すごくラッキーなことなのです。そういう友だちを作ったり出会えたりすることは当然なのではなくて、「とてもラッキーなこと」だと思っていたほうが良いことは多いような気がします。
 そういう偶然の関係の集合体の中では、当然のことですが、気の合わない人間、あまり自分が好ましいと思わない人間とも出逢います。そんな時に、そういう人たちとも「並存」「共在」できることが大切なのです。
 そのためには、「気に入らない相手とも、お互い傷つけあわない形で、ともに時間と空間をとりあえず共有できる作法」を身につける意外にないのです。大人は意識的に「傷つけあわず共在することがまず大事なんだよ」と子どもたちに教えるべきです。そこを子どもたちに教育していかないと、先生方のこれからのクラス運営はますます難しくなると思います。「みんな仲良く」という理念も確かに必要かもしれませんが、「気の合わない人と並存する」作法を教えることこそ、今の現実に即して新たに求められている教育だということです。

「友だち幻想 人と人の〈つながり〉を考える」菅野仁(ちくまプリマー新書)

 一昔前の「ムラ社会」的な教育ができなくなってきている現状を考えると、学校、学級を「たまたま集められただけの集団」と考え、みんながフラットな状態で「関わり合い方を学ぶ」ことが大切だと思います。私はいつも子どもには「関わり方」、「関わり合いの仕方」と言っていますが、これを菅野さんは、

「気に入らない相手とも、お互い傷つけあわない形で、ともに時間と空間をとりあえず共有できる作法」

と表現しています。「作法」という表現、いいですね。

 また、これは出典が不明なのですが、ミュージシャンの甲本ヒロトさんも、このようなことを言っておられたようです。

「居場所あるよ。席あるじゃん。そこに黙って座ってりゃいいんだよ。友達なんていなくて当たり前なんだから。友達じゃねぇよ、クラスメイトなんて。たまたま同じ年に生まれた近所の奴が同じ部屋に集められただけじゃん。」

「趣味も違うのに友達になれるわけないじゃん。山手線に乗ってて、『はい、この車両全員仲よく友達ね』って言われても、『いや、偶然今一緒に乗ってるだけなんですけど』って。友達じゃねえよ。」

「ただ、友達じゃないけどさ、喧嘩せず自分が降りる駅まで平和に乗ってられなきゃダメじゃない?その訓練じゃないか、学校は。友達でもない仲よしでもない好きでもない連中と喧嘩しないで平穏に暮らす練習をするのが学校じゃないか。だからいいよ、友達なんかいなくても。」

甲本ヒロト

 甲本さんの言葉の中にも、「クラスと言っても運命共同体なんかじゃない。たまたま一緒にいるだけだ。でも傷つけ合わずに暮らせるようにはなろうぜ。」という、先の菅野さんの考えと似た思いが込められているのではないかなと思います。

 私もこの方々の考えに深く共感するわけですが、この考えのみに終始していては、何だかネガティブな感じの関わり方になってしまいそうな気がします。こういった考えに共感は抱きつつも、教員の私としては「子どもが楽しいと思えるような学校生活を送ってほしい」とも思っているので、そこにもう一つ別の視点として「友達」という言葉の代わりに「仲間」という言葉を子どもたちと共有することにしています。詳細はまた次回にしますが。

 さて、今日のnoteでは初めて引用をしてみましたが、何だかうまく使えないものですね。まあいいか。
 
 結びです。巷ではよく「Z世代」なんていう言葉もよく聞かれ、「俺たちの生きた時代とは考えていることが違うな〜」と思うわけですが、呑気なことを言ってはいられません。さらに下の世代がどんどん大きくなり、その世代を育てているのが我々です。しっかりと子どもの実態や気持ち、考えていることに思いを寄せ、適切に教育していくことはとても大切なんじゃないかなと思っています。自分達が生きて来た時代の価値観を一旦捨てて、新しい価値観へアップデートし続けることも大切だということを書きつつ、今日はここまでにしたいと思います。では。




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