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失恋した人【ショートショート】

吐き出す息は白く、信号機の光は黄色しか差していない。
左手に握られた茶色い紙は皺くちゃで、真っ赤なバラはその重いであろう頭をぶらぶらと揺らしている。
人工的な光が闇を必死に照らし、時折手元で光るスマホの画面は僕を諦めさせまいと躍起になっているようだ。
どこか楽しげに走るローファー。
スマホを手に持ちながら周りを見渡すスラックスとスカート。
顔を真っ赤にしながら肩を組むサラリーマン。
そんなごく当たり前の風景を眺めながらため息をこぼした。
僕はフラれたのだ。

駅から家までの距離は歩いて十五分の距離にあり、バスや地下鉄といった公共交通機関は十分に揃っている。
しかし今日はそれらに頼ることなく歩いて家に帰った。
距離にして半分ほどのところに寂しく光っている自動販売機で、缶コーヒーを買った。

いまだに現実を受け入れられない僕を横目に、無機質な棚の上に置かれた時計は一秒一秒を正確に測っている。
刻む針のリズムも昨日までと変わりないらしい。
リビングと扉一枚を隔てた先のキッチンへと歩く。
やけに距離が遠い。
コンロの上にある換気扇の音は少し大きい気がする。
咥えたタバコから灰が自然と落ちた。
重力に従い落下する灰は苦しくも、空の缶コーヒーの口から少し外れてコンロの上に落ちた。
除菌スプレーと布巾はコンロの脇に置きっぱなしだが、拭き取ることはしなかった。

長いこと外に出ていたせいか唇は乾燥してタバコの重みを感じなかった。フィルターまではだいぶ余裕のあるタバコの火を消した。
改めてリビングの時計を眺めながら、お前だけが僕に正確な時間の経過を伝える唯一の道具なんだと心の中で伝えてみた。

いつもよりも早く過ぎる長い夜だった。


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