自我と他我
学生の時、ほとんど毎日のように空虚な気分に苛まれていて、何もかもがほんとにくだらないと感じていた。
もっともそういう気分を全面的に表に出していたわけではなく、体育祭や文化祭などの学校の行事には、くだらないとか虚しいとかどうでもいいとか内心思いつつも、場の空気を損なうことのないように参加していた。
自分とはあまり関わることのないちょっとやんちゃな生徒達は、めんどくさがって積極的に行事に参加しようとはしなかったが、そういう姿を遠目に見ながら、自分と同じ気分なんだろうなと、なんとなく仲間意識みたいなものも感じていた。
ある時、そのやんちゃな生徒達とも交流のある当時一緒にバンドをやっていた友人と話していて、学校の行事っていちいちめんどくさいね、みたいな話になり、激しく同意した流れで普段から自分が感じている空虚さやばかばかしさを友人に話してみた。
当然こちらとしては、
「そうだよな!ほんと人生なんてくだらないよな!」
と、同調してもらえると思っていたのだが、友人は少し困惑した面持ちで、
「やりたくないことをやるのはめんどくさいし、だるいというだけで、人生が虚しいとかくだらないとかは別に思ってないし、たぶんほとんどの人はそんなこと感じてないんじゃないの?」
と返答されてしまって、なんだか変な空気になってしまったことがあった。
気まずい空気にしてしまったことを反省しつつ、その時自分が1番驚いたことは、四六時中虚無感に苛まれてるなんて人は基本的に少数派であって、みんなそんなに人生を悲観的に捉えているわけではないという事実だった。
友人からもたらされたその事実は、当時の自分にとってかなりショッキングな事で、自分の周りの人間の大多数が、虚しさやばかばかしさを感じてなくて、人生に対して悲観的でもない人達なんだ、と知った時の孤立無援な感覚は今でも割と鮮明に覚えている。
社会というのは自分の自我だけではなくて、他人の自我によっても成り立っているんだ、ということを初めて自覚した瞬間だった。
大人になって振り返ってみると、あの瞬間私は確実に人や世界に対して何か絶望や諦観のようなものを感じてしまったのだと思う。
具体的に言うと、ああ世界は自分のものじゃないんだ、という落胆にも似た感情だろうか。
自分がいまいち他人に心を開いたり、親密になったりできないのは、この時の体験が大きいような気もする。
子供の時のほんの些細な会話ややり取りが、大人になった私の行動を足枷のようにある種の呪いとなって制限する。
人と違うことは何も悪いことではない。
いろんなことを経験した今の私から見れば、子供のころの私だって何も悪いわけではないことは充分に理解している。
それでもあの瞬間に感じた、この世界は私の自我が拡張した世界では決してない、という真実は、他我を理解し得ない子供時分の私にとって、そしてある程度の分別のついた大人の私にとっても、洗っても洗っても落ちない泥のように未だに頭の中に張り付いている。
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