Dive to suiden
通勤にバスと電車を使っていて、その日も仕事終わりに電車で帰路に着いていたのだが、ほんの少しの電車の遅延によって、最寄り駅から自宅までのバスに乗り遅れてしまった。
ここがある程度の都会なら、次のバスが来るのを待てばいい話だが、私が住んでいるところは結構な田舎なので、次のバスが来るのはちょうど1時間後になる。
最寄り駅から住宅地まで1時間に1本しかバスがないような僻地に、待ち時間を潰せるような場所は当然なく、かろうじて駅の待合室はあるものの、一刻も早く帰りたい最中に、携帯と缶コーヒー頼みで1時間はなかなかに辛いものがある。
駅前のタクシー乗り場には1台のタクシーが乗客待ちしているが、こちらは時間を切り売りしてやっとこさ生活している身であるため、さすがにバスの何倍もの金を払ってタクシーに乗る気にはなれない。
しばらくバス停の前で考えて、歩くという結論に至った。自宅までは30〜40分くらいだし、運動も兼ねてと、無理矢理自分を納得させて、決して楽ではない仕事で疲弊した体を引きずって、自宅の方角にゆっくりと歩を進める。
先に述べたとうり、なかなかの田舎であるため道中、自宅のある住宅地の入り口付近にコンビニが一軒あるだけで、あとは視界に入るものといえば古民家と田んぼだけである。周辺の道路も基本農道であるため、夜なんかは街灯も少なく、場所によっては月明かりが頼りなんてところもざらにある。
闇夜に田んぼを見ながら、とぼとぼと歩いているときまって、つげ義春の「無能の人」という漫画を思い出す。
「無能の人」の話の中に、幕末から明治にかけて実在した放浪俳人、井上井月(いのうえせいげつ)が登場するのだが、その井上井月の最期が、彼の辞世の句と思われる俳句とつげ義春の絵で描写されている。
彼の辞世の句、
何処やらに
鶴(たづ)の声聞く
霞かな
という句と、
田んぼの中で行き倒れている井上井月が一コマの中に描かれていて、昔から田んぼを見るたびに条件反射のようにそのシーンを思い出して、なんとも言えない気分になる。
現代社会に生きていて、田んぼの中で行き倒れになる最期というのは、ちょっと考えにくいけれど、人生良い意味でも悪い意味でも、なにが起きるか分からないことを考えれば、漫画の中で行き倒れている井上井月が、自分にすり替わっていてもなんら不思議ではないような気すらしてくる。
自分の人生の最期なんか考えるだけ無駄だと思えば思うほど、なみなみと水の張った水田に思いっきり飛び込みたい衝動に駆られる。
そして、霞になっていくのが自分か世界か確かめてみたい。
そんなことを考えている間になんとか家に着いた。体が疲れているとよからぬことを考える。
「センチメンタル過剰」
たしか、そんな曲名の曲があったな。
今日の気分にぴったりだったんで、
それ聴きながら今日はもう寝ることにします。