ほぼ毎日エッセイDay19「色塗り問題」
70色入りのマーカーペンが届いたというのに使いこなせない自分がいた。自分の意見や立場が、押しなべてふらふらしているせいだ。
○や△や□の連なりや組み合わせを丁寧に結び、あるいは慎重に消し、そうして描き上げた下絵を前に僕は腕を組んで、じっと睨んだ。
昔から色塗りは上手くはなかった。配色のチョイスは一見したところ悪くはないように思える。ところが、ペン先が紙に触れインクが染み込んでしまった束の間の後で「この色じゃなかった。欲しかったのはこの色じゃない」と嘆くことが何度あっただろう。そのような失敗を隠したくても、失敗をした時点で誰かの目に映ることだってある。SNSをやっていてもよくあることだろう。
自分の中の色の認識自体はそんなに悪くないとは思う。世間でどのように名前がついているのかは分からないが、濃い水色と薄い水色の違いぐらいははっきりとわかる。雨上がりに僕に虹をスケッチさせたらもしかしたら7色ではなくて26色くらいにはなっているかもしれない。どうせならたくさんの色を使えばよいのだ。脳内の完成形のイメージは漠然とではあるが掴めているはず。ぼやけたイメージをはっきりさせるために、コインでスクラッチするために下絵に色を塗る。それでもアウトプットして出来たものはなにやら別物の印象を強く僕に与える。雨上がりの虹というより排水溝に溜まった油のような印象である。
イメージのアウトプットはとかくムズカシイ。
また、こんなこともある。70色という選択肢の多さが、かえって僕の判断を極めて矮小な結果に導くことがある。ようは選んでいられないのだ。技術も鍛錬も忍耐もたりないまま、絵は未完成のままであることもある。四色定理を応用して、などと屁理屈を並べ立てる。
時々、色なぞなくなってしまえばいいのにと思う。少しは楽になるし、物事がまさに白黒はっきり見えるかもしれない。ところがどっこい、今度は白と黒の間に灰色の存在が緩やかなグラデーションを伴って帯状に、放射線状に、まあ拡がり方はなんでもいいけれど、とにかくそうやって光を発していることに目を覆いたくなる。
僕らは常に、淡いところから濃いところへ、あるいは濃いところから淡いところへ向かうグラデーションの中に立っている。自分がふらふらしていることへの言い訳と取られても仕方ないかもしれないが、そんなに世の中極端じゃあないんだよな。これがいまのところの僕の色です、ええ、明日には変わるかもしれませんと呟くくらいはしょうがないではないか。
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