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石垣山城 神奈川県小田原市 国指定史跡 続日本百名城

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石垣山一夜城歴史公園入り口

 石垣山一夜城(以下石垣山城)は「一夜城」と呼ばれ親しまれているように、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に北条氏の降伏を促すために、周囲の樹木を切り払い一夜で築城したかのように見せたという伝承が有名です。実際は文献や現地での調査にて築城に約80日間を費やしていることが解っており、お城としては関東では初となる総石垣の本格的な城です。ほか一夜城伝説として有名なのが岐阜県大垣市の墨俣城、福岡県嘉麻市の益富城などがあります。

 江戸時代の軍記物には石垣山城に関する記述がいくつか見られます。『大三川志』には長さ6尺の籠に石を入れて石垣とした上に櫓を建て、塀や櫓の骨組みには紙を貼りつけて白壁とした。『北条記(関白勢囲小田原事)』には「かの関白は天狗か神か、かやうに一夜の中に見事な屋形出来るぞや」、一夜にて現れた城を見て北条氏が驚いたなどと記されています。これらは後世に書かれたもので信頼できるものではありません。ここからは、当時の書状など史科に見られる石垣山城の築城の経緯についてご紹介します。

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小田原城天守閣より石垣山城を望む

 天正17年(1589)11月24日真田氏の名胡桃城(群馬県みなかみ町)を北条氏の配下の猪俣邦憲が奪った責任と、羽柴秀吉は北条氏政の上洛の遅延を理由に当主北条氏直に宣戦布告状を送り付けます。

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名胡桃城(群馬県みなかみ町)

 天正18年(1590)3月1日、秀吉は京都を出陣、初戦となった3月29日には山中城を攻略、ほか北条氏の有力支城を落とし箱根越えを果たした後、4月6日には箱根湯本早雲寺に着陣。即日にも秀吉は小田原城を見下ろす笠懸山に登り築城を決断したとみられ、以降、2交代制による昼夜問わずの普請が行われました。4月上旬小田原城の包囲が完成。総勢22万のうち約15万の軍勢が小田原城攻囲軍に当てられ、各武将の陣場には秀吉の命により堀と柵が廻らされていました。

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山中城(静岡県三島市・函南町)

 4月28日、芝山宗勝が芝弥八郎に宛てた書状では来月中には石垣山城が完成するとあり、5月14日、秀吉が北政所に宛てた書状では「早くも石垣や台所が完成し、やがて御殿や天守も完成する」と記しています。『木村宇右門覚書書(伊達政宗言行録)』には伊達政宗が6月9日に続いて10日に伺候した際に前日には無かった白壁が完成しており、政宗はこれを白紙によるものと見破り秀吉をはじめ諸大名を感心させたと記されています。

 6月26日、秀吉は陣所を石垣山城に移し、その夜22時に一斉に鉄砲を放たせたとあります。このデモンストレーションとも言える行為と、政宗のエピソードが一夜城伝説に繋がるかもしれません。

 工期としては天正18年4月から6月26日までの約80日間が築城に費やされており、石垣の専門職人『穴太(あのう)衆』が関わっていたと考えられています。(小早川文書)単純な比較はできないのですが、秀吉の城として長浜城が3~4年、大阪城は本丸だけで1年、肥前名護屋城で8ヶ月ですので、わずか3ヶ月満たないとあればかなりの突貫工事になります。おそらく天下普請のように諸大名が各持場を担当して一斉に造り上げたのではないかと考えられます。

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小田原合戦攻防図 現地説明版より

 一方、攻城戦の状況は5月16日の『多聞院日記』によると、周囲五里(約20㎞ ※実際は9km)にも及ぶ、外郭線「総構(そうがまえ)」が小田原城には築かれており北条氏は約6万の兵で籠っていました。路上には人と馬の死体が多く、死臭が漂っていたと記されています。
 目立った戦闘の記録が殆ど見られないことから、秀吉は巨大な小田原城を攻めあぐね、直接的な攻撃から北条氏の家臣の切り崩しなどの調略に切り替えた可能性があります。

総構

小田原の城総構の堀(稲荷森) 

 また、当初から長期戦を想定し大量の兵糧の確保を長束正家に命じており、配下の武将や北政所などに送った書状には「干殺にする」などと綴られていました。そのほかの関東各地に展開する北条氏の支城は、秀吉軍の別働隊によって悉く落とされてしまいます。本城小田原城においても投降や秀吉と内通を計る者が現れはじめ状況は悪化を辿ります。

 7月1日、こうした状況の中、ついに氏直は秀吉への降伏を決意します。7月5日、氏直は自らの命を引き換えに一族、家臣、領民の助命を求め、弟氏房と共に剃髪し滝川雄利の陣へ投降、小田原城は開城となりました。

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北条氏政・氏照の墓所(小田原市)

 7月11日、抗戦派の氏直の父氏政、その弟氏照、内通を計り失敗に終わった松田憲秀および、松井田城開城後道案内までした大道寺政繁らには切腹が命じられ、当主の氏直は高野山へ追放となり、北条氏は小田原を去りました。以上が石垣山城の築城に関わる歴史的な背景です。

 標高257m、小田原城本丸から僅か3kmの位置にある石垣山は元々笠懸山と呼ばれましたが、築城当時では「御座所の城」、「関白様御城」などの名称が史科にみられます。
 享保5(1720)年に描かれた絵図面には『太閤御陣城石垣山古城跡』(以下有浦図)と書かれており、ほか江戸時代の軍記にも「石垣山」の名称がみられることから、少なくても江戸中期には「石垣山」と呼ばれていたのでしょう。

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1995 小田原市史 別編 城郭より加筆、着色

 小田原市史に掲載されている縄張り図を元に作成した画像に各見所の番号を振りました。赤い線は城道ですが、早川と湯本を方面を結ぶ関白道に面しており、東から入る道と北から入る道の2本の城道があります。現在北からの城道は利用できません。

 では実際に石垣山城に登城してみましょう。といきたいところですが、その前に、登城口に置かれている巨石を見学しましょう。この巨石は江戸城の石垣に使われるために切り出された石材です。

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早川石丁場より切り出された石

 神奈川県西部から伊豆半島にかけては江戸城の石垣の石丁場(石切り場)が所狭しとあったようで、お城の石垣として適した石材「安山岩」の産地でした。石垣山城周辺も早川石丁場関白支沢群という国指定史跡の石丁場がありました。

 この石は元々一つの石だったのですが、注目して欲しいのは石の切り口にある矢穴と呼ばれる凹みがあることです。ノミでくり抜いたあと楔を打ち込んで石を割る技法のための穴ですが、石垣山城の石垣には矢穴の跡がありませんので見比べてみましょう。また、この石材には向かって右に「丸に寸」、左の石に「八」の字が刻まれています。この石丁場では製品として使う石が「丸に寸」、廃材とする石が「八」と刻まれるようです。

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① 旧城道東登口

 では、以下より有浦図と小田原城郭研究会による実測の成果と比較しながら、石垣山城の現況を紹介致します。まずは公園入り口からの登城口です。立看板には旧城道東登口と書かれています。

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② 東曲輪下段

 この城道を監視するように造られた曲輪が東曲輪です。東曲輪は上下2段に別れており、まず下段の脇を城道が通ります。なお、有浦図では東曲輪が描かれておりません。
 更に城道を進むと南曲輪の石垣が左手に見え、城道はこの南曲輪と東曲輪の上段に挟まれ切通し状になります。ここより先は南曲輪と東曲輪からの攻撃を受けながら突破しなければなりませんので、かなり困難な城攻めとなることは言うまでもありません。

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③ 南曲輪と東曲輪上段に挟まれる東の城道

 この城道ですが、有浦図では敷幅8間(14.4m)とありますが、現在はそれほどの規模ではありません。これは関東大震災の影響で両曲輪の石垣が崩れてしまったためで、震災以前の両側の石垣はかなり切り立っていたようです。

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排水路の跡

 右手には説明版がありますが、左手の地面にも注目しましょう。石列が見られますが、これは城道の排水路の跡です。お城の登城ルートだけでなく排水路はいろいろな場所で見られますが、おそらく左側だけでなく右側にも同じく排水路が施されていたと考えられます。

 先に進みますが、崩れた石垣の石にも注目してみましょう。先ほど見学した江戸城の石垣の石にあった矢穴は見られず、殆どが自然石です。

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④ 東口外門跡

 城道を50mほど進むと城道は左手に折れ曲がり南曲輪に差し掛かります。私は初心者の方には「門があるところは必ず折れ曲がる」と教えています。丁度折れ曲がったところを見ると南曲輪の隅に高さ2mほどの土壇が見られます。どのような形式の門であったかはわかりませんが、この土壇が門の基台となる石垣の跡と考えられています。

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⑤ 南曲輪

 城道を進むと南曲輪に入ります。南曲輪の現況は25~47x30m、面積は1200㎡となります。有浦図では「長二十間 横十三間」(約36x23m)と書かれています。更に進みたいところですが、その先の門の跡の前に謎の石がありますので見学しましょう。

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「此石可き左右加藤肥後守石場」と刻まれた石

 その謎の石ですが、画像だと分かりにくいかもしれませんが「此石可き左右加藤肥後守石場」という金石文が彫られています。実はこの金石文、上下逆になっています。関東大震災でひっくり返ってしまったのかもしれません。
 加藤肥後守とは加藤清正あるいはその息子忠広のどちらかと見られています。小田原から伊豆地方にかけて相模湾に面する地域では、各大名家の石丁場の境界に同様に金石文が彫られた石が見られます。この石の発見により、江戸城普請の石丁場として、石垣山城が使われたのではないかという説もあります。

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➅ 東口中門

 東の城道はとても複雑で南曲輪を通して一度左に曲がって東口外門を通り、更に右に曲がり東口中門を通ります。よく見ると両脇が多少盛り上がりを見せています。二階櫓門の跡かもしれません。縄張り図を見ますと南曲輪も含めて変形の枡形、または南曲輪が馬出にも見えます。

 有浦図では「大手門道幅四間」約7.2mと記されており、縄張り的に複雑な形状からか大手門と解釈されたようです。城道はここでT字路的に折れ曲がり、右に進むと本丸または二ノ丸、左に進むと西曲輪に通じます。まずは本丸を目指したいところですが、その前に少し足を延ばして西曲輪と北帯曲輪を見学しましょう。

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西曲輪の門の跡

 さて西曲輪に入ろうと思いますが、西曲輪の入口にも門の跡があります。石垣と土盛りが見られますが門の形状は不明です。

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⑦ 西曲輪

 標高250m、敵地小田原城から隠れ本曲輪の西側にある曲輪です。
かなり広い曲輪で、有浦図では「長四十九間横八間」約89x14.4mとあり、
実測では30~45x90m、1200㎡の面積を持ちます。天守裏に位置し山里曲輪に適した環境を備えていると考える研究者もいます。

 秀吉は石垣山城に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者らを呼んで茶会を開いたり、側室の淀殿を呼びつけるなどして余暇を楽しみながら持久戦に望みました。諸大名にもこれに習うように薦めており、ひょっとしたら西曲輪で盛大な茶会を催したかもしれませんね。

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⑧ 西曲輪の櫓台
西曲輪の西端の角には櫓台がありますのでこちらも見学しましょう。西側の守りを監視する櫓台と考えられます。

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北帯曲輪

 本城曲輪外周には帯曲輪が施されており、有浦図では本丸との比高差7間(12.6m)となっています。有浦図では西曲輪と二ノ丸(馬屋曲輪)を接続していますが、現在は二の丸手前で崩落しているため通れません。行き止まりになっていますので、東口中門に戻って本丸を目指しましょう。

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南帯曲輪

 東口中門を通ると南帯曲輪に出ます。ほぼ南北に延びる細長い曲輪でその規模は東西10m、南北60mほどになります。門の跡とみられる土壇もあり、本丸、二の丸と繋がる重要な曲輪と考えられます。まずは城道を辿り左手の本丸への登城ルートを登りましょう。

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⑨ 本丸東門

 掘込み枡形の門でこちらが本丸の正門と考えられています。有浦図では「門跡道幅五間」約9mの敷幅があったと記されており、現在の実測値とほぼ一致しています。以上が東の城道です。本丸に辿り着くと丁度目の前に展望台があります。

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本丸から小田原城とその城下を望む

 本丸展望台の横に「史跡石垣山」と刻まれた石碑があります。実は「史跡石垣山」が石垣山城の正式名称です。小田原城下だけでなく三浦半島や房総半島まで相模湾が一望できます。約400年前、秀吉も同じ眺めを楽しんでいたのでしょうね。

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⑩ 本丸(本城曲輪)跡

 標高約257m、曲輪としては最高地となります。有浦図では50間x38間(約90mx69m)、実測値は90x75~90mとなりほぼ一致しており、面積は7800㎡となります。石垣山城では二ノ丸(馬屋曲輪)に次いで広い曲輪になります。

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本丸の敷石(一部)

 公園化に伴う発掘調査にて敷石が各所にて確認されており、天守台近くからは建物の礎石とみられる円礫を検出しています。秀吉が北政所へ宛てた書状の中で天守や御殿もまもなくできると綴っていることからも、何らかの建物があったことを裏付けております。

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⑪ 天守台跡

 本城曲輪より西南に張り出しており、標高は261.5m石垣山城での最高地になります。比高は本城曲輪に対し4m、西曲輪に対し10mほど高く、有浦図では西曲輪から八間約14mあったと記されており、現況は4m程低い値になります。外観は小さい小山という印象で風化してしまった感があります。有浦図に記されている面積は13間x8間(約23mx14m)とあり、小田原城郭研究会による平場頂部の実測では18x13mを計測しており、現況と比較すると大分崩れ落ちていることがわかります。

 昭和36(1961)年に久保田正男氏によって天守台東側から「辛卯八月日」と箆書きされた瓦が採取され、平成2(1990)年にも小田原市教育委員会の調査中に「天正19年」と箆書きされた平瓦が採取されました。辛卯とは天正19年(1591)の意味があり、小田原合戦終結後から1年後に瓦が焼かれていることを意味しています。

 さらに、最新の科学分析によると、瓦に使用された胎土の組成が、静岡県の安倍川よりも東で採取されたものであることがわかっています。約80日間の築城期間で東国で採取した粘土から瓦を焼成するには無理があることから、築城当時瓦葺屋根はなく、小田原合戦終結後に瓦葺きを用いた建物があったと考えられます。

 つまり、小田原合戦終結後も石垣山城の何等かの利用があった事を裏付けています。秀吉による奥州仕置政策の一環として築城が続けられたという説がありますが、今後の研究成果に期待したいところです。

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⑫ 本丸北門

 さて、行きは東の城道から本丸まで歩きましたので、次は北の城道を伝って井戸曲輪まで歩いてみましょう。まずは本丸北門を通りましょう。本丸北門は二の丸から本丸に入る登城口です。有浦図では「門跡道幅二間」約3.6mの敷幅があったと記されています。本丸東門同様にL字に折れ曲がる枡形門です。画像では右へ折れ曲がって二の丸へ降りる構造になっています。

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北門の張り出し

 こちらは二の丸から撮影した北門の張り出しですが、北門を通るとこの張り出し地形を通って二の丸に降ります。このように北門は枡形と張り出しを組み合わせた珍しい構造の門です。神社の参道のように登城を披露する為の階段と考える研究者もいます。

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⑬ 二の丸跡(馬屋曲輪)

 標高243m、本城曲輪の北に位置しており、『新編相模国風土記稿』では「二の丸」と記していますが、有浦図では馬屋曲輪と記しています。有浦図では48x40間(91x72m)実測では90x70mとなりほぼ一致しており、面積は9960㎡となり一番広い面積を持ちます。

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馬洗出水

 本城曲輪北門近く脇には有浦図で馬洗出水と記される湧水もあります。条件が整えば現在でも湧水が観察できます。石垣山城は3条の尾根からなる地形を持っていました。この湧水はもとあった沢による水脈で井戸曲輪まで続いています。発掘調査の成果から二の丸は谷戸地形を大幅に造成した曲輪である事が判明しています。

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本丸の石垣

 二の丸から本丸を見てみましょう。とても高い石垣が見られますが、有浦図には「石垣高六間」約11mとあり、現況の比高14mに近い値です。度重なる震災にも耐えその面影を残しています。石垣山城の石垣は穴太(あのう)衆による野面積みという積み方です。野面積みとは自然の石や素割の石をそのまま積む技法で高度な技術を要します。また、お城の石垣としては初期の積み方ですが、排水に優れているといった特徴を持っています。

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⑭ 二の丸の櫓台

 現在は小さな土壇ですが、関東大震災まで切り立った石垣が残っていたそうです。この櫓台ですが、井戸曲輪の上を通って二の丸に入る北の城道の門の基台と考えられています。

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⑮ 二の丸(馬屋曲輪)北張出

 櫓台の先には二の丸の北部に突き出した帯曲輪のような細い張出構造の空間があります。有浦図では「長三十六間 横八間」約65x14.4mとあります。画像右側の直下には井戸曲輪と北からの城道があり城道を監視するのに適した空間になります。北の城道、さらにその先の井戸曲輪へ足を進めましょう。

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⑯ 北の城道

 井戸曲輪へ降りる途中で城道は折れ曲がります。井戸曲輪を眺めるように造られており、この道を通ると画像では左手の上段の二の丸の張出から横矢を受けてしまう構造でなかなか突破するのが難しい登城ルートです。東の城道同様に関白道に通ずる城道ですが、有浦図では「道幅四間」約7mと記されており、有浦図では搦手と解釈しているようです。小田原城に近いこちらが大手筋(正規登城ルート)と考える研究者もいます。ここより先の立ち入りは禁止されていますので入らないようにしましょう。さて、次はいよいよ石垣山城最大の見どころ井戸曲輪です。

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⑰ 井戸曲輪

 らせん状に大きな桝の下に小さな桝を設けるような、独特の構造を持つ全国でも珍しい曲輪です。この石垣山城で代表的な見学ポイントです。

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井戸曲輪北側の石垣

 井戸曲輪中央部に足を進めると北側の石塁が見られます。画像左上の高まりは櫓台です。この櫓台は北の城道から入る大手門に相当する門の基台と考えられ、有浦図には「裏門跡」とあります。櫓台から続く石垣の壁は小田原城に向けられています。井戸曲輪は高石垣による城壁で構成されていますが、南と西は地山に石垣が施されているものの、北と東は幅2mほどの人工的に造られた石塁という驚きの構造を持っています。関東大震災にも耐えた石垣ですが、東日本大震災の後落石が見られたので櫓台付近の石垣にはネット処理が施されています。

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井戸曲輪中央の井戸

 井戸曲輪中央の井戸を撮影しました。もともとあった天然の沢を石垣で囲みダムとして貯水能力を持たせています。条件が整えば現在でも湧き水を確認できます。

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井戸曲輪の巨石

 井戸曲輪に残る巨石です。画像ではわかりにくいですが、高さは2m以上もあるかなり大きな石です。お城の大手門や本丸の正門などには石垣に鏡石と言われる巨石が入れられることが多いですが、これらの巨石は丁度北の城道から入る門の真下にあるので、鏡石が関東大震災で崩れ落ちたのかもしれません。

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北展望台から小田原城下を望む

 井戸曲輪の見学を終えたら北の展望台に行きましょう。小田原市入生田周辺が一望できます。小田原藩主稲葉家の菩提寺長興山紹太寺が望めますが、春先には有名な枝垂れ桜を眺めることもできます。

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⑱ 北曲輪

 北展望台の先に北曲輪があります。石垣が無い曲輪で当初城の一部ではないと思われていました。『新編相模風土国記稿』では三の丸と呼んでおり、前期大久保氏の菩提寺大久寺の開山日英が、小田原合戦終結後から翌年まで住んだ「聖屋敷」として記しています。現在は私有地ですので曲輪内には入れません。

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二の丸(馬屋曲輪)南の石垣

 帰り道は二の丸を経由して公園の回遊路から石垣山城を下りましょう。公園内の電気設備の小屋近く、東曲輪に差し掛かるあたりの二の丸南の石垣が素晴らしいので見学していきましょう。

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南曲輪の石垣

 東曲輪を越えて回遊路を更に進むと出発地点で説明版のある東の城道に出ます。そのままスロープ状の回遊路を進みましょう。南曲輪の石垣が見えてきます。見学ポイントもいよいよ終わりに近づいています。

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南曲輪の算木積みの石垣

 スロープ状の回遊路を降り切ったら南曲輪の隅の石垣を見学しましょう。圧巻なのがこの石垣で自然石の巨石を組み合わせて算木積みが施されています。算木積みとはその名の通り算木状の細長い石を組み合わせて曲輪の角をこの1点で支える技法です。この一点で両サイドの石垣からの重力も受けて耐えられますので、相当頑丈な積み方と言って良いでしょう。最近では熊本城飯田丸五階櫓の軌跡の一本石垣が有名ですね。

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⑲ 大堀切

 南曲輪の隅の石垣先には大堀切が見られます。現況で堀の肩幅は50m、底幅25m、深さ10mを計る大きな空堀です。1985~87年にかけて農道拡幅に伴う発掘調査が行われており、出曲輪側東南部において堀の屈曲が確認されています。深さは最大4.4m、敷幅10mと予測されており、法面の角度は60~70度となっています。

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⑳  出曲輪

 大堀切を挟んで駐車場の奥には出曲輪があります。有浦図では46x24間(83x43m)、実測(堀内側)では100x50mとなります。この出曲輪には石垣が見られない事から、元々北条氏の支城を改造して造られたとも言われています。また、朝日の井戸という石積みを伴った井戸があり、ほか石垣山城周辺に同様の井戸が7か所あったという伝承もあります。この出曲輪は私有地ですので内部には絶対に入らないでください。

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南曲輪西の石垣

 石垣山城の見学はこれにて終了です。最後は南曲輪から西曲輪へと続く迫力がある石垣を見学しましょう。井戸曲輪と並んで石垣の醍醐味を味わえる見学ポイントです。現在の穴太衆の末裔の方がご先祖の偉業に感心し拝んだというエピソードもあります。この石垣の前で記念撮影をて帰りましょう。

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ハイキングコースに設置された『石垣山に参陣した武将たち』の説明板

 帰り道でお勧めしたいのが石垣山城から早川駅に至るルートです。とても眺めが良く小田原城並びにその城下、相模湾が一望できるほか、ハイキングコースに設置された『石垣山に参陣した武将たち』の説明板が各所に設置されています。豊臣秀吉、淀君、千利休、羽柴秀次、徳川家康、伊達政宗、宇喜多秀家、堀秀政など8人の説明版が各所に展示されています。

そして、山道を下りましたら早川漁港に立ち寄り、新鮮なお魚を食べて帰りましょう。

アクセス:JR早川駅および箱根登山鉄道入生田駅から各徒歩1時間、タクシーで10分
駐車場有

主要参考文献:神奈川県 1979 神奈川県史資料編3 古代・中世(3下) 神奈川県
小田原市編さん委員会 1998 小田原市史 通史編 原始古代中世 小田原市
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小田原市編さん委員会 1993 小田原市史 史科編 小田原北条2 中世III 小田原市
田代道彌ほか小田原市編さん委員会 1995 小田原市史 別編 城郭 小田原市
小田原市編さん委員会 2003 小田原市史 別編 年表 小田原市
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小田原市教育委員会 1991 小田原市文化財調査報告第35集 史跡石垣山I 小田原市
小田原市教育委員会 1992 小田原市文化財調査報告第38集 史跡石垣山II 小田原市
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資料紹介 史跡石垣山一夜城発見の加藤肥後守銘金石文について 小田原市
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池谷信之・池谷初恵 2012 『平成23年小田原市遺跡調査発表会 発表要旨』
石垣山城・近世小田原城出土瓦の胎土分析 小田原市
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小田原城郭研究会 1987 箱根をめぐる古城30選 かなしんブックス
小笠原清ほか 2005 戦国の魁 早雲と北条一族 新人物往来社
原著 江西逸志子 訳 岸正尚 原本現代訳 小田原北条記 (上)、(下)
小田原市郷土文化館 2011小田原市制七十周年記念特別展 都市おだわらの創生
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小田原市教育委員会 2011 最新出土品展2011「発掘された文字の世界」配布資料
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相川司 2009 戦国・北条一族 関東制覇の栄光と挫折 新紀元社
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黒田基樹 2012 中世武士選書8 戦国北条氏五代 戎光祥出版
黒田基樹 2012 敗者の日本史10 小田原合戦と北条氏 吉川弘文館
大阪城天守閣 2012 特別展秀吉の城 公益財団法人 大阪市博物館協会 大阪城天守閣

史跡石垣山一夜城歴史公園説明板



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