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"FIST OF DEATH" ムアンチャイ・キティカセム、流血の決戦日(2021年)~Youtube”มอสทะเล Mos Tha-lay Channel”からの翻訳
今回も、前回に引き続き、元プロボクシング世界王者(WBC世界スーパーバンタム級王者)で、ムエタイではルンピニー4階級制覇の名選手、サーマート・パヤクアルンをメインホストとしたYoutubeチャンネル、”มอสทะเล Mos Tha-lay Channel”より、世界チャンプ対談を紹介する。
今回は2021年12月に公開された、ムアンチャイ・キティカセム(元IBF世界ライトフライ級、元WBC世界フライ級王者)のインタビュー。番組はソット・チタラダの時と同じく、バンコクのサーマート・パヤクアルンジムで収録されている。
ソット・チタラダよりWBC世界フライ級を強奪したムアンチャイは、日本で活動していたユーリ・アルバチャコフと二度対戦し、日本の古いボクシングファンにも馴染みが深い選手である。当時は表情が変わらず、寡黙な印象を受けていたが、インタビューでは表情豊かでよく喋っている。全てを翻訳しているわけではなく、脱線しすぎているところなどカットしているが、ここで内容を紹介したい。
มอสทะเล / หมัดมรณะ เมืองชัย กิตติเกษม เหตุการณ์วันศึกสายเลือด
Mos Tha-lay Channel / "FIST OF DEATH~死の拳” ムアンチャイ・キティカセム 流血の決戦日" (2021年12月13日公開)
※サーマートのコメント(細字)、ムアンチャイのコメント(太字)で記しています。
今日のモスタレーチャンネルはムアンチャイ・キティカセムです。何回も会っているけど、こうやって話を聞くのは初めてですね。まず聞きたいのは、ムアンチャイは何歳の時にムエタイを始めたの?
8歳です。(1968年生まれのムアンチャイ氏なので、1976年当時)
親がムエタイが好きで始めたのかな?
父母はムエタイはあまり好きじゃなかった。私も好きでなかった。親にやれとか言われたわけでなく、田舎のお寺のムエタイに軽い気持ちで出た。(チャイナート県の故郷は)田舎だから映画も何も娯楽がない。だからみんなムエタイを観に行く。負けても100バーツやると言われて友だちと誘い合って4人で出た。練習もせずにだよ。※当時は100バーツ=1000円くらい。
その試合は勝ったの?
それが、、勝った!!(とても嬉しそうに)
4人出て2人は勝ったかな。で、ファイトマネーは150バーツ。リングネームをもらった。チャンピオンの名前が良かったけど、興行主が適当に、チンチョク(ヤモリ)と名付けた。俺は25キロしかなかったけど、29キロということにされて、30キロの試合に出た。
3ラウンドの試合で判定勝ちした。チャイナ―トのチャンプの意味も含めてチャイヤ―、チンチョック・チャイヤ―というリングネームでした。
50バーツを友達に分けたり、交通費にした。試合会場の寺から家までは30キロ、ソンテオ(乗り合いバス)に乗って帰る。家に帰って「ムエタイを戦って100バーツもらった」と話したら、父は「さすがこの父の息子だ」と喜んでくれて、父がそれから家でムエタイを教えるようになった。父はムエタイは素人(笑)それで腹も出ていた。「息子よ、お前ムエタイ好きか?じゃあ、やれー」ってノリノリだった。
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太ったお父さんが家で練習相手になって、ムエタイを教えてたのか!2戦目からはどうだった?
2戦目から10戦目までも全然負けなかった。父の指導が良かったかもしれない(笑)友達もみんな家に集まって練習してた。「バンコクに出て強くなるんだ」とか、「お金を稼いで有名になるんだ」なんて、思ったこともなかったよ。
10戦した後に、初めて負けた。その頃には、家で練習しながらチャイナート近隣のナコンサワン、ロッブリー、ウタイタニなんかでも試合をするようになっていましたね。
リングネームはチンチョク(ヤモリ)から変わった?
いや、まだチンチョクのまま。それから、勉強もしないしということで、ロッブリー県ターウォンのギャティポートンジムに入ることになった(寄宿生のような形)。当時は有名なジムだったんだよ。でも、ジムに入って練習して3日目、ポケットに10バーツあったから、なんとなく、そのままチャイナート行きの乗り合いバスに乗って帰っちゃった。
もちろんジムの人には何も言わずに?
言わない言わない。それで家に帰って、仕事を探した。面接に行って、建物のメンテナンスなんかする仕事、それをしてたら、オレがムエタイやってたことを覚えている人が来て、いい仕事を紹介してくれたりした。車の塗装の仕事とか、1日800バーツ(当時8000円)もらえる。でも、2日やったらシンナーで酔っちゃって、、もう無理。
そしたら1日同じ800バーツで、ジムで練習しないか、選手に戻らないかという話があって、選手に戻った。それで出会ったのがムエタイ好きのジムのスポンサー、工場の社長だった。オレをバンコクに連れて行ってくれた。それで色んなジムを回った。旧知の友人が「チンチョク、まだジムが決まってないならうちに来い」と言うから、そこに決めた。
ジムのこともよく分からないまま?
そうそう全く知らずに入った。ピーマーン・シンノーンスワンジムというところ。ジムに入って初戦はルンピニースタジアムだった。相手は有名なジムの選手だったけど、もう気にせずにいってやれと。その時には、ムアンチャイ・シンノーンスワンのリングネームになった。
そこでようやく、ムアンチャイになったわけだ。
ムアンチャイ(チャイナート市)の人間がバンコクに来たぞ、勝負するぞというような意味でもあります。そしてルンピニーの初戦は、、負けた。
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その試合は幾らもらった?
多分3000バーツ(当時約3万円)。
チャイナ―トで戦ってる頃を思えば大金だよ。
でもジム側が半分取っちゃう。
まあ、ジムは、ムアンチャイはまだ有名じゃないから大目に取っとけと。
それで、週末はチャイナートに戻って、また寺のムエタイでも戦った。600バーツ、800バーツもらって。そしてまたバンコクに戻りジムで練習、試合出場という生活。
そしてルンピニーでもまた負けて、ラジャダムヌンでも負けて、このままの練習ではいけないと他のジムで別のトレーナーとも練習するようになり、2つのジムを行ったり来たり。そのうち、ボクシングの練習もするようになった。
それから、キティカセムやら色んなジムが集まって、チャイナート人ばかりの合同ジムのようなとこで練習するようになった。そしてムアンチャイ・キティカセムになって、ムエタイで勝ち続けて9連勝。10戦目はクンプラカノンとやって、パンチもらってダウン。
私はどうしてジムが違うのに、キティカセムの名前だったのか不思議に思ってた。クンプラカノンにはKO負けしたの?
いやいや、なんとか判定まで行った。それから、あの背の低い選手、シーソット、あれは強かった。そしてチャイヤ―もパンチで倒した。
ニックネームの死の拳(FIST OF DEATH)についてだけど、誰かがをKOされて亡くなったとかはないよね。亡くなった人を殴ったのはあるのかも?(冗談の様子)どの辺りでボクシング専業になったの?
シーソットに負けたあたりかな。脚にダメージを食って、しばらく歩けなかった。フットワークもおかしくなるし、マズいなあというところで、ジムからボクシングやれと。
シーソット戦がムエタイの最終戦になったわけか。
ボクシング専業になったころはまだカオサイ先輩がチャンピオンで、ボクシングが盛り上がっていた。プロモーターからファイトマネーが15万バーツ(当時90万円)だと言われた。ムエタイの時は8万バーツ(当時48万円)だったから驚いた。3か月みっちり練習した。ボクシングは6戦目で世界王者になった。IBFのライトフライ級チャンピオンになった。(記録では7戦目で世界王者)
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当時の専門誌の特集ページより。
誰とやったんだっけ?王座は長かった?防衛は何回した?
相手はフィリピンのタシー・マカロスだった。防衛もは5回して、6回目の防衛戦でアメリカに行くことになった。(実際はIBF王座防衛は3回)
相手はマイケル・カルバハルだったね。どうやったの?(カルバハルは軽量級初の100万ドルファイターとして知られる名選手で、世界王座を5度獲得)
どうもならん、これは強かったね。ソウルオリンピックの銀メダリスト。オリンピックで判定に不満で、メダルもらわなかったとか。もうやる前からこれは強いと。特別トレーナーも3人付けて準備した。でも、気持ちで負けてたね。タイから出る時からもう怖かった。そしてKO負けしてタイトルを失った。
帰りの飛行機の中でプロモーター、ジム会長、みんなで話してる。ムアンチャイをこれからどうしようかと。世界チャンピオンに返り咲く力はあるから、ソット・チタラダ(当時WBC世界フライ級チャンピオン)とやらせてみようかと。
タイに戻って「お前チタラダとやるか?」と聞かれて、もちろん「やる」と。普通のボクサーは試合後(世界戦の後)、1カ月休むけど、オレは20日だけ休んでまた練習を再開した。2,3試合かした後、チタラダに勝ってフライ級チャンピオンになった。
一戦目はKOで勝ったけど競っていた。再戦では先輩のチタラダをさらに圧倒したね。(初戦は6回KO(91年2月)、再戦は9回KO(92年2月)でムアンチャイが2勝している)
これがスポーツですから。一戦目は自分もチタラダに勝てるか自信がなかったけど、なんとか勝てた。
チタラダに勝ってから、何回か防衛した?
5回防衛して、6回目は日本に行った。ユーリとやるために。(こちらも実際は3回防衛。世界王者時代にノンタイトルの試合も戦っているので混同しているのでは)
おお、ユーリ! ユーリ・カルバッチャコル(正確にはユーリ・アルバチャコフ)とかだったね。ユーリに負けてムアンチャイがチャンプでなくなっても、業界から消えることはなく、あちこちでよく会ったね。最近はどうしているの?
今はバンコクのバーンボーンで色々仕事をしている(電気工事の請負などをしながら、区議会議員に立候補したことも)。地元の薬物をやってるような若者を面倒見ることもある。7-8ケ月、しっかり仕事への向かいかたを教えたると大分代わって来る。オレ自身はお寺に行くでもバンボ―ンの寺にお参りをする。もうバンボーンが地元になった。
なるほど、今日はありがとう。今回はムアンチャイ・キティカセムのインタビューでした。
最後に、もしもバーンボーンに来ることがあれば、いつでも連絡ください。何か助けられることがあるかもしれません。
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