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ジョーがいた日・1997年11月22日の日常~大阪の中心と端で

1997年11月22日に何をしていたかを、40代以上の古いボクシングファンに聞くと、けっこう覚えているようで鮮明な答えが返ってくる。

「大阪城ホールの会場で、後ろのほうの席で見ていた」
「職場の近くの下宿のテレビの前で見ていた」
「地元の友人と集まって、鍋をつつきながら食べていた」など。
もちろん、試合は覚えているけど、その日、自分が何をしていたか覚えていないという人もいる。

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自分はその頃、岐阜の田舎から大阪に出てきて3年目の大学生で、毎晩のようにレンタルビデオ店でアルバイトをしていた。大学に通う他に、昼間は測量のアルバイトや、真夜中の工場の製造現場のアルバイトをすることもあった。ボクシングは13歳の時から熱中してテレビで観ており、高校時代もボクシングマガジン、ワールドボクシングの専門誌を毎月欠かさず読んでいた。大学生になり、専門誌もそれほど読まなくなったが、ボクシングを見始めた頃からのヒーロー、辰吉丈一郎の動向は抑えていた。この11月22日に至るまで、辰吉は世界タイトルマッチ3連敗を喫していた。直前の世界戦の2敗はメキシコのベテラン世界王者、サラゴサにやられたものだった。1度目のサラゴサ戦の敗北の後で、観客に向けてリングで土下座する辰吉には違和感を覚えた。圧倒的に強かったヒーローは地に落ちていた。一度でも負けたら引退すると言ってた辰吉は何度も黒星を重ね、ボロ負けした後にリングで観客に謝っていた。2度目のサラゴサへの挑戦も退けられた。悪くない試合だったが、世界と辰吉の間に差を感じた。もう一度世界タイトルマッチするには時間が必要というか土下座するような彼は見たくはない。他にもっと有望な日本選手いるんじゃないか、辰吉ばかり優遇されすぎだろうと。

27歳の辰吉が、サラゴサへの連敗の記憶も新しいまま、階級を下げて19歳の王者タイのシリモンコンへの挑戦が決まったという、テレビのニュースを見掛けた時は、残念にすら思った。ジュニアフェザー級から再びバンタム級に階級を落として、無理やりに組んだタイトルマッチの感じがした。もちろん辰吉は負けるだろうし、さすがに今後はチャンスは廻ってこないだろう。今度こそは辰吉の最後の試合となるだろうという予感がした。

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当時、自分の中で、13歳で熱中したボクシングの興味も薄れつつあったが、辰吉のアブラハムトーレスとの引き分け、リチャードソンとの世界王者獲得試合、ラバナレスとのWBC世界暫定王座を掛けた死闘、薬師寺とのWBC世界王座統一戦と思い入れのある試合ばかりだったので、彼のラストファイトになるあろう、この試合は気に留めていた。その当日もいつも通りにレンタルビデオ店のアルバイトを入れた。午後6時から12時までのシフトだった。当時住んでいたアパートは、通っていた大学から私鉄で4~5駅離れた場所にあった。他所から来た自分のようなものではなく、地元の人がほとんどの大阪府の外れの街。アルバイトは同じ大学に通っていたひとつ上のMさんと入ることが多かった。その日もMさんと一緒にレジのカウンターに立っていた。ビデオやCD棚の管理、返却ソフトの棚への返却、レジ、何か細かい作業が沢山あった。レジで細かい作業をしながら、レジのデスク下にあった14型のテレビのスイッチを入れた。お客から「映りが悪い」と言われたときに、ビデオの状態を確認するためのテレビ。アンテナにもしっかり繋いでないので、地上波を見ると、岐阜の田舎で観ていた民放テレビのように鮮明には映らない。大阪に出てきて驚いたことのひとつは、テレビがNHKも民放も鮮明に映ることだった。レジの下のテレビは岐阜のテレビのように鮮明ではないけれど、ボクシングの試合の様子は十分把握できる。ダブル世界タイトルマッチで、自分がいる同じ大阪だが、あちらは大阪の中心で、こちらは大阪の外れ。大阪の中心では、辰吉戦の前に登場した山口があっさりKO負けを喫した。

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レンタルビデオ店には仕事帰り、学校帰りのお客が次々と来店して、Mさんと私は接客、レジの業務で手いっぱいになり、足元のテレビ中継は注視することができない。足元をチラチラ見ると、すでに辰吉試合が始まっているようだが、詳しい試合内容は全く確認できない。Mさんも大阪育ちなので、ボクシングファンではないが、大阪人のヒーローである、辰吉には興味があった。「勝ってほしいなあ」というMさん。
大阪人として、大阪のヒーローが一人、表舞台から去ることは寂しいだろう。お客のレジの流れが少し落ち着き、足元のテレビを確認する。無音で流していたテレビだが、少し音量を上げてみると、阪神タイガースの応援の鳴り物がなっている。
タイガースの応援団も大阪城ホールにいて、トランペットを吹いて応援している。
辰吉の最後を見守る気持ちか、はたまた勝利を信じる気持ちだろうか、「次は赤星で行こうや」みたいに、応援曲はその場その場で適当に決めているのだろうか。

またレジが混み合ってきた。試合は序盤で、まだまだ分からない状態だった。
時々だが、延滞金の支払いを渋る客がいる。ビデオやCDなど、ソフトの返却を長期間忘れると、あっという間に5000円、10000円という金額になってしまうのだ。
アルバイトにもこの延滞金を少し割引させる権限があり、何割か割引して払ってもらうよう交渉する。高額になると、ソフトの値段よりも高くなってしまうので、理不尽に感じるお客も多いようだ。返却時にソフトを確認して、延滞が発覚する場合もある。
1泊2日でソフトを借りたのに、7泊8日で借りたと勘違いして返却する人が多く、よく揉める。この日はレンタルビデオ店の社員である店長は休日をとっていたが、お客と揉めた場合は店長に電話する。延滞金で困った場合は、割引をどうするか相談したり、時には電話ごしで交渉にあたってもらう。

レジ下のテレビ、辰吉の試合は4ラウンドに差し掛かっていた。その時、60代とみられる夫婦はお店の合成繊維でできた貸し出し袋をレジカウンターに出した。
「いらっしゃいませ、返却ですか?」と夫婦に声をかけ、貸出袋の中にあった2枚のCD、ありふれたJPOPのアルバム2枚を、レジを通してみた。45,000円、という数字が出てきた。1年の延滞である。不安そうな夫婦は、それが息子の借りたCDであり、現在、息子は遠くに行っており、しばし帰ってこないことを説明した。
「息子さんは何か悪いことして、刑務所にでもいるのだろうか」と思い、夫婦を見ると45000円の延滞金を告げるのも、可哀そうに思えてくる。それでも告げないと仕事が進まないので、45000円の延滞金の発生について説明すると、夫婦の表情が変わった。

「そもそも、延滞金が発生したらお店はお客に電話の一本もいれるべきだ」「こんなものは払えない」などと怒鳴り、夫は怒りを表す。妻のほうは不安そうな表情を見せる。Mさんと二人で夫をなだめるものの、怒りは収まらないようで、その間にビデオの貸し出し希望のお客もやってきてレジが混んでくる。店長に電話して、直接夫と話してもらい、その日は帰ってもらうことになった。後日、再度来店してもらい、延滞金をどうするか話し合うことになった。
そんなことをしている間に、レジ下のテレビの辰吉のことはしばし忘れていた。

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試合のことを思い出し、どうなっているのか確認すると、辰吉の連打に王者がよろめき、レフェリーが試合を止めた。Mさんと二人で顔を見合わせた。「勝った!」
お客がいても構わず、テレビの音量を上げる。辰吉は「亡くなった西原先生、後援会の会長の小森さん、グレート金山選手に勝利を報告したいです」とリングで述べた。
13歳の時に初めて見た辰吉、その時から7年が経過し、敗北を重ね、トレーナーも代わり、周りの大切な人もいなくなっていった。そんな中でようやく大きな勝利を得たということに、しっかりと中継を見ることはできなかったが、この日の記憶は鮮明に残っている。アルバイトの後、自転車で1時間かけて友人宅に向かった。彼が今夜の試合をビデオ録画してたからだ。

「辰吉勝った」「辰吉勝った」と心の中で叫びながら、深夜の大阪の端で自転車をひたすら漕いだ。

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辰吉氏と戎岡氏と著者、熊本で撮影(2018年)

某サイトで掲載(2021年5月31日)

↓ ↓ 続編


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