お小遣いをお手伝いのご褒美にしない
以前に投稿したよう「お小遣い制度」は複利で運用している我が家だけど、お手伝いのインセンティブとしてのお小遣いは渡さない判断をした。この考えに至った経緯として、コーチングの先生との出会い、オススメされた書籍、経済と倫理との関連などの話題について。
もちろん、おうちの数だけ考え方があるので、論破するつもりも論破されるつもりもない。いろいろ知った上で至ったのであれば、その判断は尊いものだ。
子育ての悩み事が読書に救われた話
長女が4~5歳くらいの頃、クセが強くて手を焼き、コーチングの先生に相談したことがある。事前準備として、現状について書いてくるように言われた。
細々といろいろあるのに、いざ文章にすると何から書こうか筆が進みにくいもの。妻と話し合い、まずはマインドマップで書いて文章に起こし、添付して提出したところ「お父さんもまぁまぁクセが強いですね」とやんわり言われた。
コーチングを受けたからと言って、クセが強かった子供が劇的に育てやすくなることはない。むしろ、「そんな都合の良い話はない」ことを受け入れ、親としての気持ちの持ちようが変わった。うちの子はそういう子だと明らめる覚悟ができた。今読み返すと、根っこの部分では変わらないけれど、折り合いを付けられるよう成長した部分もあり、その頃は無かった新たな悩み事もあり感慨深い。
先生も読書家でおられて、いろんな本からの教訓を下さり、本と出合うことができた。例えば、「このまま学年が上がったらいじめられるんじゃないかと心配」に対して、「まだ起こっていない心配事は起こらないので気にするだけ無駄」という助言を頂いた。
この教えは、悩み克服本として著名なD・カーネギー先生の「道は開ける」の主張だった。子供に関する悩み事の1つに「まだ起こっていないことにヤキモチを焼いて仕返しする」があり、親である私も子供の将来を心配していて、親子どちらも「まだ起こっていないことを心配」をしていた。
「読書しても頭でっかちになる」という非読書派の批判もあるけれど、目の前の悩み事に対してサラッと先人の知恵を参照して答える先生は素敵だったし、私にとってもいろんな本に出合うキッカケになった。
子供へのまなざし
我が家が経典として選んだのは、児童精神科医である佐々木正美先生の「子どもへのまなざし」だった。子供をとことん甘やかす教えであり、コーチングの先生から勧められた本でもあった。
反論として「甘やかしても子供がつけあがるんじゃないの?」が予想できる。そのような考えで厳しく躾けようとして上手くいかなかった我が家は、この経典を受け入れてみることにした。
とことん甘やかすのも簡単ではないし、むしろ我慢が求められる。子供が求める前に先回りしてしまう「過干渉」とは違う。子供が求めるまで待って求めただけのことをやりなさいという教えだった。
例えば、7歳の子供が抱っこを求めてきたら「もうお姉ちゃんだから駄目」と断りそうなところ、幼い頃に満たされていない裏返しなので年齢は関係なく満たすべしと説く。自己肯定感が芽生えて「いつでも抱っこしてもらえる」確信ができれば、そのうち自立して抱っこを求めないようになる。お年頃の非行少女の原因が自己肯定感の欠如にあるとすれば、「抱っこ」まで遡らねばならない。素直にお願いできないし、抱っこでは満たされないので年齢が上がるほど骨が折れる。
時に厳しくすることも必要だけど、母性→父性の順番でなければならない。つまり、甘やかしによって築かれるお互いの信頼(母性)なしに、恐怖を煽る厳しい躾け(父性)があっても、恐怖がなくなれば従う動機がなくなる。何かを買ってあげたり、金銭を渡したりすることをインセンティブにすれば、それをあげなくなれば動機がなくなるのも同じ。親から巣立っても続くためには、本人の内面に動機が芽生えなければならない。
他の人を「嬉しい」気持ちにさせることが動機であれば、親の手を離れても子供に根付く。別視点でアドラー先生の言う承認欲求の是非はいったん避けといて、金銭よりはまだ内面的な動機づけに近い。この教えに従い、お手伝いをしてくれた子供には、お金ではなく「嬉しい気持ちになった」ことを伝えて報酬とする。
「子どもへのまなざし」は3冊シリーズで、読み進めると育児のお話から佐々木先生の専門である自閉症の話へと掘り下げてゆく。育児のエッセンスに関しては1冊目だけでも為になるし、結論だけサラッと読みたい人は「3歳までのかわいがり子育て」がおすすめ。
それをお金で買いますか
インセンティブに関する話題は、最近読んだサンデル先生の「それをお金で買いますか」でも触れられていた。重めの事例だと金銭による代理出産から、身近なものだと転売ヤー問題まで、それまでお金でやり取りされなかったものを市場経済に持ち込むことの是非について問題提議する。
貧しい人から機会を奪うとか、強制力を持ってしまうとか、富豪にとってのハシタ金は大切に思う気持ちを反映しないとか、もっともらしい理由は挙げられる。それよりも経済学の議論で見落とされがちな「市場の浸食により腐敗・堕落し本質を失ってしまう」ことをサンデル先生は一貫して指摘する。例として、保育園のお迎えに遅れないよう気を付けていた倫理観ある人でも、罰金を課する運用に変わると費用の対価として受けるサービスだと捉えてしまい、もともとあった倫理観が締め出される。
気持ちの問題に近いところで、家族のためにすることは損得でなく思いやりであって欲しいと私は願う。生きるためにお金を稼ぐことは汚いことじゃないと強調するし、家電などにアウトソースすべきと考える私でもそう思う。このあたりの感覚は「逃げ恥」における契約結婚の受け止め方みたく、人によって違うのが当然だろう。
書籍による裏付けも紹介しながら、おそらく探せば逆のことをおっしゃる本もある。どの宗派を受け入れて、どのように実践するかは人それぞれ違っていいと思う。子供にどんな人間になることを望むかは多様であって当然だ。あなたはいかが?という問いかけまで。