身近にあるトロッコ問題
私が住んでいる地域でも、再び飲食店の酒類提供が禁止となることになった。それを受けて
「この政策によって救われる命と失われる命のどちらが多いんだろう?」
と問いかける人がいたので掘り下げる。
数値化を試みた人がいた
少し調べると2021/7/20付で東京大学の方が「コロナ禍の自殺・コロナ後の自殺」という分析結果を公開していた。
https://covid19outputjapan.github.io/JP/files/FujiiNakata_Suicides_Slides_20210720.pdf
要約すると2021/7/7までのところ、感染症で直接的に亡くなった方は累積15,000人であるのに対して、自殺者数の増加は累積3,200人と少ない。予測値は、2019年末時点に予測された2020年の失業率をもとに、自殺者との相関をとった予測値を求め、実際の自殺者数の差によって計算されている。
このまま緊急事態が続けば、自殺者が感染症の死亡者を上回るタイミングはいずれ来るだろう。ハイリスクな高齢者へのワクチン接種によって感染症による死者は減る一方で、経済活動抑制が長期化するごと命を落とす人が増えるという予想である。
協力金により店主・雇用者への経済負担は減った一方で、被雇用者が苦しんでいるという分析もある。
そう思って数字を見ると、単純な数だけで比べるのが妥当だろうかという疑問も浮かぶ。
身近にあるトロッコ問題
この議論ってトロッコ問題そのものじゃないか。役に立たないとDISられがちな哲学の問題が目の前にある。
トロッコ問題とは、ブレーキがないトロッコの線路の先に縛られて横たわる5人と1人がいる状況で、分岐点にいる自分が「A.何もせずに5人が死ぬ運命」「B.レバーを引いて1人が死ぬ運命」のどちらかを選ぶものだ。
思考実験ながらかなりショッキングな問題設定で、2019年に小中学校の教材として扱った際には、子供が不安がって学校側が謝罪した事例もある。
目を背けようとトロッコ問題に帰着する政策が目の前にあり、今この瞬間も感染症や自殺で命を落とす人がいる。
横槍を入れる豆知識として「脱線させればどちらも助けられるよ」という話もある。思考の枠にとらわれず、両方を救う答えを導くのがクリエイティブの役割だとは思うけれど、この投稿では便宜的に脱線は考えない。
これからの「正義」の話をしよう
トロッコ問題を扱った本で印象に残っているのは、サンデル先生による『これからの「正義」の話をしよう』だった。日本の小中学校には荷が重くとも、ハーバード大学の哲学講義では普通に議論される。
我々が緊急事態宣言を受けて議論しそうな正義の話は、既に先人がトロッコ問題で考え尽くしているので、巨人の肩の上に乗って学ぶことで有意義な議論が出来る。
サンデル先生はまず、我々が信じている正義の基準が脆いものだと指摘する。トロッコ問題の例だと「1人を犠牲にして5人を助ける」ことを良しとする人でも、条件が変わって「1人を能動的に突き落として殺めることで5人を助ける」「身近な人が中にいる」場合には簡単に判断基準が揺らぐ。
正義のバリエーションは大きく分けて3つに分類できるとサンデル先生は話していた。どれが正解というものではなく、どれも欠点がある。
①幸福の最大化
②自由の尊重
③美徳の促進
冒頭の問いかけに対して「15,000人と比べて3,200人の方が少ないから妥当な政策だね」ということが納得できるならば、思考の癖としては①の功利主義に近い。功利主義のメリットは客観性・合理性にある。
ただ、まどマギのキュゥべえが言う「魔法少女の犠牲が、人類全体を救うんだから良いじゃないか」という主張を許せるだろうか。私は「この人でなし!」と思った。もともと人じゃないけど。
多数が救われる場合であっても、自分の犠牲が素直に受け入れられる人は少ないだろう。功利主義には立場の弱い少数派が犠牲になりやすいデメリットがある。
上記①だけでなく、②③にもそれぞれメリット・デメリットがある。②自由主義を突き詰めると「無料ワクチン接種に税金を使わず個人の自由に任せろ」に行き着くため、公共福祉が成立しない。③の共通善は素晴らしい世界だけど、机上の空論という欠点がある。日本は価値観が均質なので、比較的③を目指しやすいとは思う。
サンデル先生の主張は「欠点はあっても思考停止せず議論を続けよう」であった。こちらの動画がたいへん分かりやすい。
私は誰も批判しない
酒類関連で感染者が増えることを「気の緩み」と斬り捨てるリーダーもいるけれど、生業とする人にとっては文字通り生きるための業として酒を提供する。強制力がない「お願い」に対して、死を選ぶくらい思い詰める人だっている。命を懸けた生業を尊重したい。
政策を非難する人に対しても、私は非難しない。国や県のリーダーに進言するなんて、テレビ越しに監督の采配を批判する野球ファンのようなもので、民主主義の極論を言えば「だったら自分がなれよ」という話ではある。とは言え、民主主義にも少数派を蔑ろにする欠点があり、考慮されにくい立場を代弁して声をあげる意味はある。
実際の政治には、私たちが考えもしなかった利権や影響範囲もあるのだろう。逆に、政策を決める瞬間は情報が少なく、政策が降りてくる頃には情報が出そろって後出しで批判することもある。憶測ながら、実時間で難しい判断をこなしているリーダーの判断は尊重したい。
誰も悪くないと思いつつ、よりよい答えを探すことは諦めずに続けたい。