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お芝居を繰り返し観て

先週の日曜日、映像で携わっているお芝居の夏公演が本番を迎えた。モニター画面やファインダーを通してではありながら、事前の通し稽古、当日のゲネ+本番の4回、後編集で繰り返し同じお芝居を観るというのは、新鮮な体験だった。

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飽きるどころか、何度も観るうちに「こういう意図で演出&演技されているんだ!」と気付く新鮮さがあった。その一方で、お芝居そのものが回を重ねるごと育ってゆく側面もあった。

サウンドオブミュージックと私

今回携わったお芝居の内容は、有名なミュージカル映画「サウンドオブミュージック」から設定を拝借しつつ、オリジナルな要素を盛り込んで描かれる。和の木『ここに流れる 音楽の時間』であった。

https://kobenagominoki.wixsite.com/nagominoki

力で抑えつける父親トラップ大佐のもと、子供達は大人を信じなくなり、幾度となく家庭教師に嫌がらせをして追放してきた。次の家庭教師として抜擢されたのは、かつて問題児だった修道院見習いのマリア。お堅い家風に合わない音楽を持ち込んで、型破りなスタイルでトラップ家の人々の心を開いてゆく。...元ネタの映画と、今回のお芝居の共通項としてはそんなところ。

私の母方の伯父(行きつけの喫茶店が同じ)は、ジュディーアンドリュース版の映画サウンドオブミュージックが好き過ぎて映画館に7回は通って観たと言うてた。「そんなに観て楽しいのか?」と思ってきたけれど、今回お芝居に携わって私もそのくらい回数を観て、気付くこともあった。

木を見ても森を見ても楽しい

お芝居オリジナルの要素として、歌だけでなくダンスも散りばめられているので、エンターテイメントとして小学生の観客でも飽きずに楽しく観られる。

でも、楽しさだけが魅力ではない。短い1時間という尺の中で、様々な心理描写がお芝居の中に仕込まれている。登場人物の個性を伝えつつも、スピーディーに話を転がさねばならないので、1から10まで説明していないことに気付く。

映画版の設定が頭の中に入っていたことも想像の助けになったかもしれない。それでも、私が観る回数を重ねるごとに感動が増すのは、細やかな演出を感じ取って「このタイミングで、この人物はこういう心境だったんだろう」というイメージが湧くことが大きい。

繰り返し観て気付いたこと

繰り返し観ると、振り付けひとつとっても心を開いていない状態から、キッカケがあり、心を開く変化がグラデーション付けて演じ分けられていることに気付く。

そして、登場人物によって変化のタイミングも違っていて、まず小さい子供から、お姉ちゃんお兄ちゃんに波及し、最終的には大佐の心を開く。

主人公であるマリアが皆に変化をもたらしたようで、よくよく見ると変化を受け入れた子が年上の子を引き込み、子供が自分の意思を表現することで大差を変化させる。マリアは場を創ったにすぎないとも言えるし、変化をもたらす力を授けたとも言える。

そして、完全無欠の自由人に思えるマリア自身も、不安の中で新しい環境に飛び込み、葛藤しながらもこれまでの人生を捉えなおし、相手に寄り添うよう成長を遂げている。このことがこみ上げてきて、次回のオープニングでovertureが流れた瞬間からグッと来てしまう。

話の流れを構造的に掴むために、私にとっては繰り返し観る必要があった。もしかすると、落語と同じようにお芝居にも「お約束」があるのだろうと思う。お芝居の魅力を十分に受け取るには、観る側のリテラシーが求められるのかもしれない。

ナマモノとして育つ舞台

上に書いたのは鑑賞する自分側の問題であったが、お芝居そのものも回を重ねるごとに変化していることも感じ取れた。

1日に4回の舞台(ゲネ+本番3回)と直後の反省をとっても、段取りに気を取られ過ぎると涙腺に響く演技になりにくいし、情動を推し出すと段取りが抜けたりする。そのバランスをとりながら舞台は仕上がってゆく。最後の公演が一番良かったと感じた。

芝居そのもので心を揺さぶられつつ、メタなところで芝居に取り込む劇団の人たちの苦労に思いを馳せたりもする。このご時世に演劇をやり通すのは凄く大変なことだっただろうと傍目に解る。

本来は沢山のお客さんに観てもらいところ、席を間引いての公演となる。外の雑音が入っても換気をする。出演者や関係者は検査して臨む。入れ替わりの度に消毒をする。いろんな制約を塗ってお芝居の場が成り立つ。

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表現は生きることそのもの

当日を終えて、子役さんが「生きていて一番楽しい夏だった」と話していたのが印象的だった。朝から晩まで4回も演じて、大人でも疲弊するところ「楽しい」と言ってのけるのだから凄い。そして、このご時世&この世の中において、そう言える時間が過ごせることは凄く尊い。

演劇などの表現活動は生きることに必須ではないし、いくら対策をしても批判はあっただろうなと想像する。それは賛否あって当然だし、どちらも正しい。

ただ私が感じ取ったのは、表現活動が生きるために必要/不要と問うのはナンセンスで、渦中の人にとっては「生きることそのもの」になりうることだった。この夏を生きていて良かったと思う。

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