見出し画像

出禁リストが増える度に「明日は我が身」と戒める

行きつけのお店はけっこうシビアに「出禁」をとる。「そんな悪い人じゃなさそうなのに…」という人も出禁になっていたりする。

女性が中心でお店を営んでおられるので、強面のおっさんなら言われないような言葉を浴びせられるのかもしれない。体験している世界が違うことをと思うと、私の想像力では及ばないところもある。

店には禁止事項の張り紙がある。「連絡先交換NG」はわかるけれど「手品禁止」「クイズ禁止」まである。項目がさりげなく追加されていると「今度は何があったんですか?」と聞くことで、出禁エピソードを肴に飲むことができる。「無粋だなぁ」と感じる一方で、「明日は我が身」とも思う。

けっこう気前よく振る舞ったり、マメにお土産を差し入れたりするお客様だったのが、時が経つごとに「俺が飲ませてやってんだ」と強気になるパターンはよくある。話好きで人懐っこい人だと思っていたら、他のグループの話に割って入ってまで自分語りをするパターンもある。

改めて「千と千尋の神隠し」を観た時に、カオナシが肥大化する描写って実はリアルだったんだと、妙に感心した。ご馳走する善行も、傍若無人になって話題の中心になろうとする愚行も、根本にあるのは承認欲求だろう。

承認欲求を持つこと自体は、性欲や排便くらい当たり前だけど、適切に処理できるかによって人間としての差が出る。

若い時は「何をするか」が大事だけど、年をとると「何をしないか」が大事になってくる。歳を食う程に敬われるのが当たり前になり、恥じらいがなくなり、いらんことしやすい環境ができる。

周囲の人達がいらんことして自滅してゆくので、いらんことしないだけで好感度が上がるのはチョロい。それが出来ればの話で、それなりに難しい。

キャバクラの意義について昔はよく分からなかったけれど、今なら少しは理解できる。嫌な顔せずおっさんの承認欲求に付き合ってもらうのだから、妥当な対価に思える。そのサービスを提供しているか否かを言葉にするのは野暮だから、見極めが出来ない人が出てしまう。

チヤホヤされたい気持ちは分からんではないけど、その提供を謳っていないお店に求めるのは違うと思う。私は話しかけてくれてもよいし、ほっといてくれてもよい。

承認欲求を全否定するアドラー心理学に触れて、流石に自分はそこまで聖人になれないと思う。誰かが認めてくれなくても、私は私が好き。出禁にならない程度には承認欲求を飼い慣らしたい。

いいなと思ったら応援しよう!

odapeth
「文章でメシを食う」の道を開くため、サポートいただけると励みになります。それを元手にメシを食ってメシレポします。