自分へのご褒美をあげるのが下手なみなさま。

優しくできないのは自分に余裕がないからで。

それはもうしょうがない。

自分は本当によく頑張っている。よく頑張ってきた。頑張って生きてきたと思う。

だから自分にご褒美を与えて余裕を生み出して生きようとしている。

けれど、自分にご褒美をあげるのがへたなので、どう下手なのかというのを細かく突き詰めていくと、ご褒美をご褒美だと感じる力が弱いという考えがまず最初にきた。
なぜ弱いのかというと、ご褒美を受け取っていることへの申し訳なさとか、自分はそんなに頑張っていないのにという自分の頑張りとご褒美の不均衡に違和感を感じているのだと。

つまり、ご褒美が妥当に思えなければご褒美を幸せに思えないのだろう。

グロいなあ。
となるが、思考が止まらないのでもっと突き詰める。

ご褒美を妥当に思えるにはどうしたらいいんだろう。
今までの妥当に思えなかったご褒美を挙げてみる。

喫茶店のケーキ、焼肉、ブランドの香水、化粧品

どれも高尚という言葉がよく似合う。

ご褒美に付随した「高尚」なイメージが私の頑張りと不均衡なのかもしれない。
ということは高尚でないご褒美が、私にとって妥当に思えるご褒美かも。

高尚でないご褒美は結構ふわっとしていて、具体例が思い浮かばないので、「高尚でない」もう少し言語化してみる。

高尚でない=親近感、身近、引け目を感じない、馴染み深い

つまり高尚でないご褒美は「親近感のあるご褒美」「身近なご褒美」「引け目を感じないご褒美」「馴染み深いご褒美」
さっきよりは共通認識の範囲が広がりそうだけど、まだふわっとしている。

と、ここで気づいた私め。さっきあげた高尚なご褒美、これよそいきの自分を演じるためのものじゃね?と。
このご褒美たち、心が穏やかになるものではなくね?と。

自分へのご褒美って、心が穏やかになるご褒美にも言い換えられるとわかった。

でもなんだろう。

「自分へのご褒美」という言葉の違和感たるや。
「自分」という言葉は内なる概念を表すけど、「ご褒美」って、自分という内なる概念からかなり離れた場所にある外行きの言葉じゃないかと。

ご褒美という非日常な体験を、超日常な自分に与えるということ。

つまり、ご褒美を受け取るのは主観的な自分で、褒美を与えるのは客観的な自分だ。
ご褒美を考えて、受け取る。
だったそれだけのシンプルな作業だけど、対象が誰かではなくて自分になるから、
2面性で自分を見る必要がでてくるという、メタ認知をかなり要する過程がぶっ込まれるんじゃないか。

自分がほしいものと、自分が与えられて幸せだと感じるであろうもの。
これらは似て非なるもので、欲求を満たすか幸福を追求するかの大きな違いがある。

今の段階では「高尚でないご褒美」が、私にとってなんなのかはわからない。
けど、ご褒美がただ自分の欲求を満たすだけのものだった時に、自分へのご褒美をご褒美と思えないのではないだろうか。

なぜなら欲求を満たすことは、満たされていない自分とは程遠い位置にあるから。
自然と自分に高尚なご褒美を与えることになるから。

ご褒美をあげるのが下手な私は、世間一般的に「ご褒美」とされているものをただ単に摂取しているだけだったことに気づいた。

シュークリーム一つでさえ、それを食べて幸福に感じているかどうかはあまり考えてこなかった気がする。
自分へのご褒美をあげる時、無意識に選んだものが自分の幸福を追求するものか、欲求を満たすものか、を天秤にかけて考えるだけでも、いいご褒美を与えられそう。

あなたも良いご褒美ライフを。

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