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始まりの優しさ

人にどう思われるかを気にして生きることをこの地上の全ての人が手放すと、どれくらいの幸せが訪れるだろう。

自分を大切にすることと周りの人を大切にすることは密に繋がっていて、

「自分勝手だ」「それじゃ放置だ」と言われても、自分を100%満たした状態でなければ他者への優しさは本当の意味で成立しないと私は思う。

自分に徹底的に優しくできる人は、相手に対しても同じように望み、相手の自由を心から尊重する。健全な人間関係はそこから始まるものだと私は信じている。

正直に言うと「私、いつの間にこんなに嫌われてしまったんだろう」と思う瞬間もたまにあるけど、自分らしく在る中で起きる変化ならそれも良しとしている。私のことをどう思うかはその相手の自由であって私にはどうすることもできないから、私はブレずに完全な自由意思によって自分の感情や行動を選択する。

ここ1年ほど心を整える勉強をしてみて、今までなんとなく知識として理解していた「自分を満たして溢れた分で人に優しくする」を愚直に実践することで、より明確になった「人への優しさ」と「自己犠牲」の大きな違い。

誰かに何か言われるから、思われるから、気が向かなかったり本当は今じゃないと感じるタイミングで目を凝らさないとわからない程度のストレスを持ちながら行動したり、自分の心の変化をいけないこととして人との関係や何かを続けることは尊いことでもなんでもなくただ魂をすり減らす行為であって、小さなストレスは日々積み重なり、いずれ「私はこんなにやってるのに」と自由に生きる人への嫉妬となる。

そこから徐々に愚痴や悪口が生まれ、一度漏らしてしまえば二度目も三度目も抵抗なく、新しい愚痴や悪口を生み出す環境が次々と整えられていく。「ほら、あなたはこれが見たいんでしょ?」とあちこちから引き寄せられるように。

最近はSNSもあまり見なくなった。
開くと心が重たくなる。これは自分には向いていないツールだと気づき、見る時間を大幅に減らし心の負担を減らすことにした。

自分の在り方や生き方において何かを選ぶとき、本当に大切なことはスマホの中にはなくて、答えはいつだって自分の心の中にあった。

誰かがしたことしなかったことを見て、気に入らないことを相手のせいにしたり自分を被害者にするのをやめて、何かを問題だと認識した自分の内面と向き合うと、必ずそこには色々な価値観を刷り込まれ押しつけられていた頃の幼い私がいる。「やっぱり、ここにいたのね」と回収する。

自分のことを一番理解し優しくてあげられるのは他の誰でもない自分であること、自分の心は自分で満たせることを忘れず「何にフォーカスするか」を常に意識して過ごしたら、今までより穏やかにいられる時間が増えて「嬉しいな、ありがたいな」と思うことが途切れなくやってくるようになったと感じる。

ホームスクールの認知を広げたいと動き始めたのも、大きくいうと世界平和のため。自分に優しくするのも巡り巡って世界平和に繋がると信じて、揺るがない優しさをまずは自分に。

今この瞬間、自分を含めすべての存在のために、世界平和のために、まずは自分に一番優しくできる私でありたいと思う。

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