愚問
何気なくぶつけられる悪意のない質問は、ときに子どもを困惑させ傷つけることがある。
先日、夫が娘に唐突に聞いた
「なんで学校に行きたくないの?」
あぁ・・・キタよキタこれ。と思いながら、なんて答えるかなととりあえず見守ってみた。
「・・・・・・・・・・」
無表情のまま固まる娘。困惑してる。
そうだ、この子は真面目が過ぎるんだ。よく聞けよ夫、と助け舟を出す。
「行きたくないんじゃなくて、行く理由がないから行かないんだよ」
少し沈黙して「行く理由が・・・ない、か」と不服そうな反応の夫。
その後、中学高校がどうのハタチ過ぎたらどうのとブチブチ言うので「その時は私が子どもたちを連れて家を出ます」と話を終えた。
子どもたちには学校に行く「権利」と、何をどこでどのように学ぶかを決める「選択肢」がある。ということを、きっと理解していないのだろう。
何度説明しても、子どもは学校に行くことが当然だと信じきっている人には理解できないのだと思う。いつからか私も1から10まで説明し理解を求めることをしなくなった。
学校を利用しない子にその理由を訪ねるのなら、学校に通う子にもその理由を聞くことをセットにしてもらえないだろうか。
用事のない場所に行かない理由を聞かれても困るのだ。特に子どもは。
パンをどの店で買うか自由に選べるのに「なんでスーパーバリューで買わないの」と聞かれるようなものだ。
ベルクだってイオンだってパン屋さんだって、行ける範囲で選べるし自分で焼いたっていい、その材料をどこで買うのかも自由に選択できることを理解していたら、そもそもそんな愚問は口から出てこないはず。
「なぜその店でパンを買うのか」を聞かれるのではなく、その他のしかもたった一つの店に的を絞り行かない理由を聞かれた時、こちらは落ち着いて「なぜそんな質問をしてくるのか」と逆に問いかける必要がある。
でもこのようなやり取りに不慣れなうちは「どうして学校に行かないの」と聞かれると「学校に行かない理由」を一生懸命探し答えなければいけないと思ってしまう。だから困って固まる。
しかも「子どもは学校に行くもの」という価値観を持っている人からその類の質問をされるのは、学校に行かないことを責められているのだと感じる。質問という手段で殴られているようなものだ。
例えばこちらが「スーパーバリューはパンコーナーまでが遠い」と答えると「歩きやすいスニーカーで行けば」と言うだろう。「駐車場がいつも混んでいて怖い」と答えれば「なら歩いて行けばいい」と・・・あげくには「みんなスーパーバリューに行ってるよ」とキメてくるのはもうお決まりのパターンだ。
うっかり相手の視点に沿って「学校に行きたくない理由」をひねり出し答えたりしたら、今度はその理由を潰すようなアドバイスを投げつけてくる。アドバイスじゃない、クソバイスと呼ぼう。
学校に行かない理由を消せば「学校に行く」と言うだろう、そして学校に行けば本人のためになると信じている。「学校に行く」と言わせるため、責めるため殴るために質問しているようなものなんだ。そんなもの質問ではない、質問に見せかけた攻撃だ。相手にする必要はない。
娘は自分の父親が学校絶対主義者であることや、父親自身が経験していないから学校のカリキュラムに沿った「お勉強」以外を学びと認めないことを知っている。そこになんの根拠もないことも。
理解していない、ただ知らないだけ。
でも知ろうとすらしないんだ。ということも知っている。
いつか父親が理解する日がくるかもしれないし、こないかもしれないことも。
娘とはその後、
娘はまだ自分の困惑を解きほぐし言語化して相手に伝える技術が未熟であること、的外れな質問には相手と同じ視点で返事をしなくてもいいことを話し合った。