今も昔も傷つくのは同じ?
走りすぎてる梅雨のせいで、5月に大雨が降るというなんともな日が来た。
五月晴れはどこ行った?
五月雨ってたまに降るからいいんじゃないのか?
昨今、お出掛けを控えないといけない状況のうえに、この雨。
気分もドドーンと下がるけど。
雨と言えば、水。
水と言えば滝。
で、思い出す好きな歌がある。
たちぬはぬきぬきし人もなきものをなに山姫のぬのさらすらむ
(裁ち縫はぬ衣着し人もなきものをなに山姫の布晒すらむ)
裁断も縫いもしない衣を着る人なんて(もう)いないのに、どうして山の姫は布を晒しているんだろう
この歌は、「竜門にまうでて、滝のもとにてよめる」の詞書をもつ、平安歌人・伊勢の歌。
竜門ってうのは、吉野にある龍門寺という今はなきお寺のこと。
詞書には、伊勢が龍門寺に参詣した時、滝の近くでこの歌を詠んだということが書いてあるだけ。
で、竜門の滝は、こんなの。↓
アングルが最悪だけど、下がすぐ滝つぼになっていて、これ以上近づけない。
この場所、結構な山道を登らないと辿り着けない。
だいたいずっとこんな感じ
↓ ↓ ↓
そんなところに、どうして平安時代の歌人が?と、思わなくもない。
伊勢はお姫様ってわけじゃないけど、そこそこ上流階級に属する人。
天皇の后に仕えるために宮中に上がってた。
色々あって、その天皇の子を産んだり、はたまたその天皇の皇子との間に娘を産んだり(今の時代に当てはめると、とんでもないことのように聞こえますが、色々とシステムが違うので、特に問題ない行為です。一応念のため)してるけど、この歌は、皇子や娘を産む前の話。
伊勢がこの場所へ来たのは、失恋の痛手を癒すために頂いた休暇中のことなんだそうな。ほぇ??
歌にはそんなこと一言も出てきてませんが、竜門のある吉野は当時大和と呼ばれた地域で、当時伊勢のお父さんが、大和守という役人だったと言う背景もある。
里下がり(実家へ戻る許可をもらって宮中を出る)の間の出来事。
で、この里下がりの理由が、失恋。
この説を滝の前で聞かせてもらった時は、思わず笑ってしまった。
失恋してお休み貰えるんだ。「失恋」とか「傷心」とか、届を出したかどうかは知らないし、そもそもそんな届がいるのかどうかもよく知りませんが。
なんだか、人間ってあんまり変わってないじゃんと。
深い意味も知らずに、何となく好きになった歌だけど、この説を聞いてから、伊勢もこの歌もますます好きになった。
そういえば、数日前の芸能ニュース以来、〇〇〇ロスで有給取ったり、ふさぎ込んだりしている人が沢山いるのかもしれない。
三十六歌仙に選ばれるような歌人でも、恋愛で凹むことがあるんだから、仕方ないよねって思えそう。笑
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たちぬはぬ衣きぬきし人もなきものをなに山姫の布さらすらむ
「裁ち縫はぬ衣着し人」は、仙人のこと。竜門には仙人が居たという伝説が残っていて、私が行った当時も案内板とそれらしい岩陰?が残ってました。
「布晒す」は、ほぼ滝を現すようです。上から下へと水が流れ白く見える滝が布に見立てられたそう。布引の滝なんて言いますし、瀑布は滝のことを指しますし。
仙人が住んだという竜門に来てみたけれど、もはや仙人の姿はない。なのに、山の姫は、仙人のためにまだ布を晒しているのはどうして?
なんていう感じなんだと思います。
やりがいのないことや、する必要のないことに対する空虚感を、伊勢は自分の恋の破綻と重ねたのかもしれないと思ってみたりします。