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【イベントログ】小高パイオニアヴィレッジ3周年トークセッションを行いました。

はじめに:OPVは3月10日で3周年。
本当にありがとうございます!

2019年の3月10日 地域の皆さまをお呼びし、晴れてオープン。

3月10日をもって、小高パイオニアヴィレッジがグランドオープン3周年を迎えました。
会員・利用者・今まで応援してくださった皆さまのおかげです。
改めてありがとうございました。
3周年を記念し、これまでの道のりを振り返るべく、発起人である但野さん・和田さんを若手の2名が囲んで話すトークセッションを行いました。
ちょっと昔を懐かしんだり、過去の話に驚いたり。
最後は未来の話に花を咲かせるひと時となりました。
本noteではトークセッションのハイライトを文字に残しています。
ぜひトークセッションと合わせてご覧ください。

参加者
和田智行
一般社団法人パイオニズム 代表理事 
株式会社小高ワーカーズベース 代表取締役
但野謙介
一般社団法人パイオニズム理事
根本李安奈
株式会社小高ワーカーズベース NextAction→Social Adademia 統括
野口福太郎
株式会社小高ワーカーズベース コミュニティマネジャー

編集・執筆:野口福太郎

動画アーカイブリンクはこちら

Chapter0:小高パイオニアヴィレッジとは

コワーキングx宿泊xガラス工房
性質の異なる人々が交差する。

福島県南相馬市小高区に位置する、宿泊機能を備えたコワーキングスペース。(略称OPV)
東日本大震災に伴う原子力災害により断絶されたなりわいやコミュニティを創出するべく、2019年3月に設立されたました。
「境界のあいまいな建築」をコンセプトに、日々地域の内外の多様な人がOPVを拠点に活動しています。
1Fの工房スペース「アトリエiriser」には、小高ワーカーズベースのガラスアクセサリ事業が入居し、ハンドメイドガラスが製作されています。
起業支援活動として、NextCommonsLab南相馬(2017〜)、Next Action Social Academia(2021〜)などを展開。

設立:一般社団法人パイオニズム 運営:株式会社小高ワーカーズベース

Chapter1:始まりはたった一人の宴会場から。
小高のコワーキング幻のバージョン0。

OPVにて煌々と佇むミラーボール。
その歴史は意外にも長く、それでいて深い。

野口
そもそも小高パイオニアヴィレッジは、どのようにして構想されたのでしょうか。

和田
昔の小高ワーカーズベース(以下OWB)をご存知の方は、駅前でやっていたことを思い浮かべるかと思いますが、実は初めは違う場所でやっていたんです。
場所で言うと、現在のOPVから100メートルほど西にある大きな宴会場をパーテーションを区切ってやっていました。

根本:
どういう方が使っていたんでしょうか?

和田
これは2014年ですかね。
当時はメディアの方が取材と取材の間に原稿を一本書いて行く、と言う形でした。
相双地区でWi-Fiを 取れる場所が無かったため、相馬に来てるインターンの学生が小高まで来ていたこともあります。

あまり大きく告知をしていた訳ではないですが、知り合いづてに聞いて来た人が多かったです。
とはいえ人が来ることは珍しく、基本的に僕一人でした。

幻のバージョンゼロは小高区関場にて。
(キャプチャにつき画像が荒くてすみません)

但野
随分上手く写真を撮りましたね(笑)
その頃からミラーボールがある。

野口
このミラーボールは何者なんでしょうか?

和田
会津若松にあるEyes, JAPANと言う企業があります。
小高にコワーキング作るという話をした際、社長の山寺さんが
「アメリカではコワーキングスペースに必ずミラーボールがある。日本で言う神棚のようなもので、絶対置かないといけないものだ」と話してくれ、僕はそう言うものなんだと信じました。
オープンと同時に山寺さんがお祝いに送ってくれたものを今でも使っています。

根本
そもそも、当時は福島にコワーキングはいくつあったんですか?

但野
会津若松には一つありましたが、あまりなかったですよね。
とはいえコワーキングスペースを作る、と言うのはブームで、石巻や仙台に視察にも行きました。
コワーキングスペース自体、事業としては大変そうだよねと言う話をしたのを覚えています。

根本
それでも作ろうとした決め手はなんだったんですか?

和田
コワーキングスペースそのもので稼ごうとは思ってません。
とりあえず現場に身を置いて、外からいろんな人を呼んでみる。
この地域を見て何かやりたい個人、何か企業として関われないか、となった時に形にするには物理的なワークスペースが必要で始めました。

何が起きるかは全く未知数だったし、事業を自身で別にはやっていたので、まずはひっそりと作りました。
それでも小高に人が来る、状態がなかったので、新聞社さんに取り上げていただきました。
立ち上げに応援してくれた地域のお母さん方もきてくださいましたね。

Chapter2:バージョン1:駅前に出て、人の流れが出始める

駅前の双葉屋旅館さんのお隣時代の一枚。
かつてはOWB事務所兼コワーキング、
現在はKIRAと言うお店になってます。

野口
先ほどをバージョン0とすると、バージョン1のOWBはどのように変化したんですか?

和田
コワーキングには全然人がこなかった、アテンドツアーを行うなどで駅前には人がきていたんです。
「和田くん、駅前に出ておいでよ!」と、双葉屋旅館の女将の小林友子さんにお声がけいただきました。
最初期のものを開いてから3ヶ月での移転でしたね。

野口
それにより、何か変化はありましたか?

和田
まず、圧倒的に人目につきやすくなりました。
自分の知らない方が来たり、時には観光案内所かと勘違いしてフラッとくる人もいました(笑)

野口
コワーキングスペースとして、の人の流れは増えましたか?

和田
コワーキングスペースとして人が増えたわけではないけど、狭い中でも人が常にいる状態になりましたね。
隣の双葉屋旅館さんをきっかけに、女将さんが利用者を連れてきてくださるなど色々な方とお話しする機会や、交流することが増えました。

野口
そこから、何か生まれたものはありますか?

和田
場所を移してから食堂事業おだかの昼ごはん、仮設商業施設の運営事業東町エンガワ商店などがスタートし、本格的に事業づくりが加速していきました。
事業以外では、避難指示解除前に、コスプレ夏祭りなどを2年連続で行っていますね。
コスプレイヤーの方は作品の世界観と近い写真を撮りたい願望があり、避難区域というのは意外とヒットするんじゃないか、と仮説をもって試しました。
2年目は商工会の青年部も巻き込み、いわきの方から飲食店も呼ぶなど、盛り上がったな。

野口
100の事業づくりに向け、ギアを上げ始めたんですね。
ただ、そこから小高パイオニアヴィレッジを作ろう、というまでにはまだ少し距離を感じます。
間にはどのようなことがありましたか。

和田
東町エンガワ商店、Harioランプワークファクトリー小高など、自分達の事業づくりをメインに行ってきましたが、仲間をもっと増やさねばと考えていました。
このコワーキングじゃ手狭で、外から人が呼べる拠点がないと、外から企業を誘致するなどは難しかったんです。

当時通っていたグロービス経営大学院でそのプランをプレゼンしたら、日本財団青柳さんが興味を持ってくださり、本格的に小高パイオニアヴィレッジの構想がスタートしました。

Chapter3:ビジョンの言語化で、合わさる目線。
但野さんの参画ストーリー

和田さんが講演する際のスライド。
中央集権型ではなく、自立分散的地域こそ、
持続可能性やレジリエンスの鍵となる。

野口
なるほど。
そこから大きなことが生まれ始めたんですね。
ただ、ここまで大きな構想には和田さん一人えでゃなかなかできなかったんではないでしょうか。
但野さんもそこにどのように参画されていったのですか?

但野
特に細かいやり取りをした覚えはないんですが、どこから和田さんとビジョンの方向性がリンクし始めたんだろうと振り返ってました。

大きく二つきっかけはあると思っています。
一つ目。
原町青年会議所の45周年で、若手経営者として十年先を見据え、帰還する人や、避難する人をどう呼び戻していくかのプレゼンをまとめる過程でのことだったと思います。

そもそも日本全体で産業構造も変化していく中で、「元に戻す」ではなく、新しい仕事を作ろう、と言う話をしました。
日本社会の課題解決につながるフィールド、多くの企業やUターンIターンを呼び込み、受け入れようと言うコンセプトなど、今や日本のどこでも当たり前な取り組みを7年前に構想しています。

もう一つ。
福島ソーラーアグリパーク(現あすびと福島)の半谷さんのもとで、企業研修にて僕と和田さんが年間何十本も互いのプレゼンを聞くことだったと思います。
言葉を重ねずとも頭の中を共有でき、お互いのプレゼンを見ることで考えのアップデートを話さずとも共有できていました。
そうするとだんだんと目線が揃っていくんですね。

2015年、但野さん作成のスライド

当時は確か2015年。
原町JC45周年の際のスライドですが、今みれば、結構実現していますよね!
何もなかったけどこういうことをやりたいと言葉に落として自分の言葉で人に何回、何十回も話す。
あすびと福島さんをはじめ、やりたいことをスライドに落としたり、色々な人に発表していく過程でブラッシュアップされていきました。
このチャンスをいただけたことは大きいです。

根本
避難指示解除が2016年。解除見込みが2年後ろ倒しになったことを除けば、ほぼ時間通りに実現していますね。
こう言うのがきちんと実現されている事例、初めててみました(笑)

但野
大手の企業さんの第一線で活躍するような人も来てくれ、ビシバシと質問攻めに会いました。
「本気でお前はやる気があるのか」と言わんばかりに僕たちの覚悟や解像度が問われていましたよね。

和田
そう。なのであすびと福島さんの研修では、すごく自信の事業をブラッシュアップする経験になりましたね。
汗だくになって応えるような。

今までのフェーズ、立ち上がってきた事業を一枚のスライドに整理しました。
何かが立ち上がらなかった年がない、というのが驚き。

Chapter4:パイオニアヴィレッジはいかにして今の形になったのか。

ひな壇を中央に囲むワークスペース、ゲストルームを5部屋、
ガラスアクセサリの工房が入居するOPV
設計をされたの藤村龍至先生は
原子力発電所事故被災地に新たな日常を再生産する「工場」
と定義づけている。設計:RFA

野口
今までは構想の領域を主に掘り下げましたが、「境界のあいまいな建築」という表現で建築領域でも興味を持たれる方は多いようです。
OPV自体がこの形になった経緯についても伺いたいです。

和田
とにかくやりたいことを藤村先生に遠慮せずぶつけたらこうなったんです。
藤原先生は毎回模型を作って見せてくれるんですが、やりとりする中である日ひな壇の模型が出てきたその瞬間、「これだ!」と思いました。
(藤村龍至先生の提唱される「超線形設計プロセス」により、OPVのプロトタイプが段々と出来上る過程をぜひご覧ください)

但野
2012年、福島第一原発観光地化計画の構想の際、藤村先生との接点が生まれました。
建築家の丹下建造さんが日本の戦後復興のシンボルとなる広島の平和記念公園を若くして作られたように、世の中が切り替わるとき、若い方の思想や表現こそが必要なんです。

震災に直面した若者が何を考え、何を考え、どんな思いでどんな建物を残すのか。
建築という形で爪痕を残しつつ、時代を経たのちの議論にも挙げられるようなものを作ろうと、藤村先生にお願いしたいと思ったんです。

お金はないけど、研究室に和田さんと押しかけました。(笑)

和田
日本財団さんにお声がけいただいたものの、プランがないと何もはじめられない。
ほとんど見切り発車で藤村先生にお願いしました。

但野
それでいうと、和田さんに苦労させてしまったなと思うことがあります。

野口
おお、ここにて。(笑)

但野
当時、小高に予算20億程度で復興拠点となる公共施設を作るワークショップをしていました。(小高交流センター
30年後振り返った時、「ああ、あれがあったから復興したよね」と言えるようなものを作ろうとしていました。
税金を使う以上、みんなで丁寧に議論をしなければならず、尖ったものも作れない。それでいて、待てど暮らせど出来上がらない。
もちろんあれはあれで今魅力的な場所なんですが。
そのプロセスを傍で見ていたからこそ、欲しいものを作るなら、税金をあてにしてられないよね、と和田さんと話してましたね。

和田
小高交流センターに関してはワークショップを重ねて、住民が臨むものを話し合う機会がたくさんありました。
僕がだけが「コワーキングスペースが必要だ!」と高らかにいうのですが、なかなか共感者はいなかったんです。
最終的な図面で見たときに、「ああ、そうなるんだ…」と思い、自分たちで作ろうと腹を決めた節はあります。

但野
「境界が曖昧な建築」というコンセプトも、そのプロセスで生まれていて。
解除前、解除後で住民が徐々に戻る中で、地域の生活事情が変わり、欲しいものも移ろうんですよね。
対して公共建築は用途を固めて30年スパンでの運用を前提にしてしまうので、大変なんです。
今は必要だけど、3年後必要かわからない機能に対応する余白を作れない。
ならばこちらは柔らかいコンセプトの建物を作ろう、という話に。
まず僕らが欲しいと思うものを入れてみて要らなければやめればいいし、使う人が増えたら有休不動産を活用し、外にはみ出せばいい。
その熱量の中心になる建物が、まさにここです。

Chapter5:OPVの「ヴィレッジ構想」今何合目?

野口
ここをきっかけにして移ってきた人や生まれたプロジェクトにより、どんどんまちが変化していますよね。
デザイン事務所ができたり、酒蔵が立ち上がったり、街中を馬で散歩できるようになったり。
全てここに閉じ込めるのではなく、パイオニアたちのヴィレッジらしく、熱量が伝播し、飛び火していく。
「ヴィレッジ」構想実現度合いは今何分目ですか?

和田
「中」に関しては、60点、70点ぐらいですね。
「外」にはみ出していく点で言うと、まだ始まったばかり。
20点、30点と言う感じかな。

野口
その60点を構成する要素は例えばなんですか?

和田
福ちゃん(野口)みたいに縁もゆかりもないひとがやってきて住人になって働いたり、リアナちゃん(根本)みたくUターンしてくる人もいるし。
起業家みたいな人もいれば、そうじゃなくとも外からも泊まりに来る人がいる。
この動きが常態化していると言う意味で70点つけれるかな。

働、遊、学、暮、この要素がミックスされ、化学反応が生まれている。

足りなかった要素は、思いのほか席数と部屋数のキャパが少ないこと。
もうちょっと頑張ってお金集めればよかったかな(笑)

根本
はなれを作るとか、外にはみ出す構想でカバーしていけばいいじゃないですか。

但野
この規模だからこそ熱量がギュッと伝わった、と言うのもありますよね。
僕も和田さんとほぼ一緒で、建物自体の試み、企みは及第点をつけれます。

ただ、僕達のチャレンジとしてはまだ一合目、二合目です。
挑戦を続けられるような体制は整ってきましたが、打席になったばかりでやっとバットに当たりはじめ、試合は始まったばかり、と言う感じ。

地域を豊かにする企業やチャレンジャーがここで暮らしはじめているので、もう少し先には「産業」のように、ここで生まれた価値を外に波及させ、皆で豊かにしていくフェーズに押し上げねばならない。
そう言う観点では、まだ打席にすら立っていないです。

野口
スケールが大きいですね!
整理するとハードがあり、起業支援の制度もでき、サポート企業も出始めています。
あとは何の要素があれば、大きな成果が生まれるようになるんでしょうか?

和田
このハードは地域に起業家のコミュニティを生み出し、受け皿とするために作ったので、もっと創業支援の要素を強めたいと思っています。
また、移住希望者がここを入り口にし、その後地域にうまく流れるような仕組みも必要かなと思います。

但野
福ちゃんや根本さんが謀反を起こしてここから出てチャレンジしていくようになるのが次のフェーズになると思っています。
僕や和田さんは移住や起業の受け入れや相談を受けていますが、そのキャパシティ不足がボトルネックになりはじめています。

想いが共有できていて、僕らの指示をしなくとも勝手にサポートしたり動ける人たちが5人、10人になり、この地域に魅力を感じて移住したい人が自由に暮らせる体制ができて欲しいですね。

また、ここ一二カ月で起きている動きですが、東京を含め全国いろいろな地域と天秤にかけ、小高、南相馬で起業することを前提に移住する人が出てきたことは大きな成果じゃないでしょうか。
仮説としては、選んでもらえるだろうとは思っていました。
適切なターゲットに提示すると選択肢になっていく。
それでうまくいく人が来るとまた一つフェーズが前進するし、見え方が変わってきますよね。

仕事があれば暮らしたいライトな層には、数も増えているので、ここでの暮らしの魅力を伝えていく。
一方ビジネスとして、チャレンジの場として選んんでもらうことに関しては、まだまだ再現性も高くないし検証も進めていかねばなりません。
それに関しどんな人たちとどんなコミュニケーションをしていくべきなのか。
目線を共有していくと、景色が変わる予感です。

野口
育てる機能、受け入れる機能をレベルアップし、体制を整えていくと、また流れが変わってくるのでしょうね。

…うーん、謀反ですか。
そう言う点では、起業支援のNA→SA PJとかではあまり指示なく僕や根本さんが好き勝手に進めているので、兆しはあるのかもしれません。(笑)

但野
そうですね、この3周年の企画でも何一つやらずとも進んでいることはすごい進歩だと思っています。
先ほど話したあすびと福島の半谷さんの研修登壇のたび、一年を振り返るんですよね。
毎年一年分の進歩は、想像していなかった方向に進んで行ってる。
建てた旗には向かっているものの、プロセスは紆余曲折、想定していなかったことばかりです。

この一二年でもコロナにより、全く想定していなかった変化を経験しています。いい方向に進んでいると思います。

Chapter6:2030年の未来を妄想して。

野口
そろそろお時間も迫ってまりました。
色々話してきましたが、最後のテーマ、2030年の未来を想像するお時間にできればと思います。

和田
会社としては地域に事業を作り、ミッションとビジョンを実現することは変わりません。
ただ、一個やってみたいことがあって。これ言っちゃっていいのかな(笑)

根本
行っちゃいましょう!

和田
ユースシティ構想はチャレンジしたいです。

根本
ユースシティとはなんでしょうか?

和田
年齢を制限して、たとえば30代以下の人を特定の場所に集積して働き、暮らしてもらう特区、と言うものです。
例えば、当然若い人がいれば食べる場所が必要になる、服も必要になるなど、色々な事業の種がうまれます。

また若い感覚だからこそ、色々な事業の種やサービスがどんどんと生まれる。そういった構想です。

野口・根本
これは尖りましたね。(笑)

和田
同世代なので横槍が入らず、過去の延長上の価値観に止まらないアイディアなど、この避難区域になった場所で実現できたらものすごいインパクトがあるんじゃないかな。

何が生まれるかは予測できないけど、必ずポジティブなことが起こる思っています。
地域の方たちのご理解もいただきながら、実現できたらいいな。

野口
小高もある意味そんな場所ですね。特定のシチュエーションにより生まれた変化で、新たな需要、サービスが始まる。
壮大な社会実験みたいですね。
その構想の中に、30代じゃないので和田さんはいないですけど…いいんですか?(笑)

和田
その時は外から指咥えてみてます(笑)
実際そうして道を開けないと、意味がない。

野口
ありがとうございます。
但野さんはいかがでしょうか?

但野
ここまで復興も含め、多額の支援や人の支援をいただいてやっとここまできました。
この先も皆さんに応援いただきたい部分もありますが、一方、本当の意味で地域で自立する、持続可能性を手に入れる部分は責任を持って実現しないといけないと思います。

これまで応援してくださった方への責任ですし、この地域に根付いて残ってきた歴史、伝統や文化は、皆がここに暮らし続けることでしか残っていかないものでもあります。
人が居続けること、そのものがすごく大事だと震災を振り返り改めて思います。
この先十年二十年が正念場。
この先生き残れるか、すなわち暮らせるか、仕事を生めるかにかかっています。

野口
この地域は二十年、三十年先の日本の課題が集積していると言われますが、だからこそ解決に挑むことで「持続可能な地域社会づくり」に一歩近づくのでしょうね。
ありがとうございます。

では若手からも一言行きましょうか。
僕自身ここに移り住んだ理由の一つに、地域=右肩下がりをいかに食い止めるかがテーマだなと思っていたのに対し、小高=どうゼロから地域を作り上げていこうかがテーマなユニークさにありました。
ある種の追い風の時期なのかなと思っています。
ただ、いつか来たるは成長が止まる時にどう活路を見出すのか。「持続可能な成長」ですよね。
それをやるには今から仕掛けることが不可欠だし、若さゆえのセンスやバイタリティが必要になるのでしょうね。
引き続き色々な形で関わりたいです。

根本
小高に戻ってきて一年、純粋にここに住んでいてすごい楽しいです。
ただ地元だからではなく、創りたい未来を語り、実現している同世代がいるからです。
今、局所的に起こっていることを紐解いて解像度を高めていくことでもっと普遍的な世界の課題にもつながっていくんじゃないかと感じています。
視座を高め、その本質にローカルからアプローチすることで、インパクトを生んでいきたな、と考えています。

但野
7年間、避難指示解除が解除されてからコミュニティの構成員が増えたり新たなものが生まれたり、ずっと右肩あがりの状態だったと思うと、世界の見え方が変わってきますよね。
右肩下がりに蝕まれ続けている中で未来を描くのは難しい。
改めて小高、被災地はずっとこの5年間歩みを止めずm少しずつ良くなっている。
世界を見据えて未来を描けるモメンタムに身を置いてるのは、何にも変え難い財産になりますね。

根本
生まれて以来私の世代などは不況と言われ、好景気を知らずに生きてきました。
そんな時代において、みんなが前を向いていることは魅力的に見えますね。

野口
語ったらあと3時間ぐらいいけますね。(笑)

和田
過去のことを掘り返すと色々つながって面白いですね。

野口
ヨモヤマトーク、ぜひシリーズ化しましょう!

1時間ちょっとオーバーしましたが、色々なテーマでお話ししながらも、小高の可能性や次の未来のフェーズにに必要なことまでお話しできだのではないでしょうか。

但野さん・和田さん、りあなさん、ありがとうございました!


編集後記

長文をお読み頂きありがとうございます。
小高パイオニアヴィレッジのコミュニティマネジャーの野口です。
今回モデレーターを務めました。

まず、改めてこの地域の非連続的な成長に驚いています。
1年、3年、5年、7年で変化を続け、小高は別世界のようになっているなと実感します。

また、固有名詞に関してはリンクを振らせて頂きました。
(下線が振られたテキストです)
今の小高という地域、OPVの構想やカタチはたくさんのバトンを受け取って成り立っているのだと、感銘を受けます。

過去、何もかもを失ったところから懸命に活動されてきた方に感謝をここに記します。

そして、これからも応援とご愛顧のほど、何卒よろしくお願いいたします。


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