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映画「夜空はいつでも最高密度の青色だ」
「夜空はいつでも最高密度の青色だ」という映画がある。
原作が詩、そこから脚本=物語が生まれ、
生きている人間が実写化して生まれた映画だ。
「詩が映画???」という疑問符の勢いのまま、
公開終了ギリギリのレイトショーに駆け込んだ思い出がある。
詩ってなんだろう?、小説とかとはなにが違うんだろう?と考えたときに、「詩にはストーリーがない」とまず思うけれど、詩集のなかにも地面のでこぼこのようなストーリーはあると思う。だから自分は「ひとつの言葉をどう楽しむか」という、受け手の楽しみかたのベクトルの違いだと思っている。売られたときの分類とかではなくて。
詩は、言葉のイメージを煮詰めたシロップの原液だと思っている。
海、風、宇宙、あなた、、、、
言葉についているイメージそのものを捏ね繰り回して味わう。ストーリーのなかに没入して楽しむのが物語としたら、それとはまったく違う没入感、イメージの世界に溶け込むような「活字→言葉」の楽しみかたが詩だと思う。
つまり小説のなかにも詩は感じられる場合があるから、詩の対極が小説ではないと自分は思っている。
少し脱線したけれども、その映画で主演を勤めた池松さんのインタビューがネットニュースになっていた。
球体の自分のバランスを保って生きてきた…という表現。
どこか頑張って、無理をして、組成が崩れて、、、という状態になりがちな自分には、己の身に起きたことのようにしっくり理解できた。自分の組成を崩して一皮むくということも大事なのかもしれないけど、それとはちがう在り方が明確に言語かされているパターンは珍しいと思った。この感覚を大事にしたい。