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テロリストに携帯電話を奪われ、私たちは救助を求め続けた

これはガザ国境地帯からの私の証言です。
分かりにくいところもあるかもしれませんが、どんなに言葉を並べても、あの時の経験を100分の1も表現することは出来ません。

その日は金曜日。
10月7日の前日。
長男のヤイルは近所の友達の家でお泊りをしたいと頼んできた。私は「行ってらっしゃい、楽しんでね」と伝えた。
夫のイガルは、朝6時にベングリオン空港に友人を迎えに行くから、と私にリマインドした。

それから8時間後。
10月7日、午前6時。
サイレンが鳴る。娘のアラドが私に駆け寄って来たので、私も駆け寄って抱きしめた。
夫のイガルに息子のヤイルが家に帰ってきてないとメールをしたが、その後、お泊り先のホームシェルターで寝ていると知って安心した。サイレンは鳴り止まず、すぐさま銃声とアラビア語が聞こえてきた。
「アラビア語?アラビア語だ!」

キブツのWhatsAppグループに 「アラビア語が聞こえる」と書き込んだ。最初はだれも信じませんでした。彼らが実際にその声を聞くまでは。家の窓が割られ、彼らは家の中に入ってきた。
2-3人で会話してる声が聞こえ、私は家のシェルターのドアの取っ手を握りしめた。娘のアラドは、また眠ってしまい、次男のアベルもベッドで眠っていた。
夫のイガルにメールして「テロリストが家にいる」と伝えた。テロリストたちは空っぽの家を見て、誰もいないと話しているはず。

夫のイガルは...大急ぎで家に帰ってきた。今思えば、8時過ぎに家に戻って来るなんて、距離的に狂気沙汰だった。
ヤイル...彼を探しに外に出ようとしたが、家の外からまだテロリストたちの声がした。すぐに家の中に戻って、愛するケイティとシェイに連絡したら、ヤイルはそこにいた。
ケイティとシェイが『テロリストが私たちの家の中にいる』と私に連絡をくれた後、すぐにGPSの信号がなくなった。
私の心は粉々に打ち砕かれた。何時間経っても返事がない。
その時イガルは教えてくれませんでしたが、ヤイルの携帯の位置情報にはハン・ユニスが表示されていた。それはガザだった。

子どもたちはのどが渇き、お腹が空いているのに、物音ひとつ立てなかった。私はクローゼットからすべてのものを出して、カゴと洋服で、簡単なトイレスペースを作った(詳細は書きません)。その間も、近所の人たちと私は援助要請を送信し続けた。止まない発砲、テロリスト、赤ん坊のいる家の火事、そこにいる人たちは窒息してしまう。WhatsAppグループに何度も何度も「イスラエル軍がいない!」「軍はどこにいるの!」と書き込んだことか。


素晴らしく勇敢な救急隊が、家から家へと駆け巡り、助けに来てくれた。まさに天使の様な存在だった。そして、男女率いる救急隊たちは、この状況下で私が正気を失わないように慰めてくれた。
「ヤイル... 私のヤイルがいないの」私は泣き出した。

数時間経ってから、ヤイルと共にいるシェイから連絡があった。でも、シェイが飼いたがっていた犬の名前を言うまでは、彼がシェイだとは信じられなかった。
テロリストは彼らの携帯電話を奪ったが、彼らは無事でした。その後、その時の現状況を教えてくれていたが、また音信不通になった。心臓が飛び出しそうだった。午後3時半になってやっと、救急隊はヤイルと愛する友人たちを救出してくれた。ヤイルが私たちの声を聞こうと電話をしてくれました。その声を聞いてどれだけ安心したか。私たちは、食料と水を取りに外に出て、ホームシェルターに戻ることができた。でもまだ銃撃戦は続いており、アラビア語が聞こえる。私達はすぐにホームシェルターに逃げ込んだ。


どうやら、テロリストは私たちの家に隠れているようだった。
午後5時に軍が再び到着し、私はヤイルとようやく会えた。私は愛する息子を強く抱きしめた。
後にケイティから、ヤイルは勇敢だったと聞いた。彼はケイティとシェイを励まし、抱きしめていたそうだ。その日の夜、軍の人たちと一緒に保育所に避難した。翌日の午後5時、国防軍に護送されキブツから避難した。キブツ・ニリムのWhatsAppグループ...見返してみると、恐ろしい。
私たちは見捨てられていたのです。誰がなんと言おうとも。

ハダス K

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